鬼と『般若心経』:再訪

 鬼を知りたい人には馬場あき子『鬼の研究』 (三一書房、1971、ちくま文庫)がおすすめです。歌人馬場あき子が「形は鬼なれども、心は人なる鬼」に惹かれて研究したのが本書(馬場あき子は1928(昭和3)年、東京生まれの95歳、日本芸術院会員であり、文化功労者)。鬼は王朝時代の冥界に生きた霊であり、反体制的破壊者とでもいうべき人たちの怨霊でした。死者の霊が幽霊で、その中の怨霊は妖怪であり、その妖怪の典型が鬼です。人間的な鬼、土俗的な鬼、仏教的な鬼が混然としたまま共存し、数限りない妖怪譚が生まれたのが平安時代でした。私の好きな彼女の歌に「衰えし 魂ひとつ さすらわん 夕日浄土の ふるさとの山」があり、老人の私にピッタリの歌です。

  馬場は鬼が人の別称に過ぎず、人の心情面から「鬼」を捉えようとしています。恐れ、慄き、怒り、怨念、嫉妬、願い、祈り等々の中で、人の負の情念が鬼を生み出したのです。鬼が生まれたのは平安時代で、「鬼の昔話」は日本人の心の世界で生み出された冥界の物語であり、貴族から武家へと変わろうとする時代の人々の心理世界を描いた物語であることがわかります。

 鬼の系譜と分類を馬場の研究からまとめてみましょう。鬼の歴史は人間の鬼に対する「関心」の歴史と言い換えることができます。例えば、鬼と出会った人々が鬼のことをどのように認識してきたかによって、その性格や姿形が変化してきたのです。

 馬場はまず、鬼を4種類に分類します。

1 「民俗学上」の鬼。祝福にやってくる祖霊や地霊で、鬼の最古の原像。

2 山人系の人々が道教や仏教をとり入れて修験道を創成し、組織的にも巨大な発達を遂げることで活躍し始めた「山伏系」の鬼(や天狗)。

3 「仏教系」の邪鬼、夜叉、羅刹の出没、地獄卒、牛頭、馬頭鬼。

4 放逐者、賤民、盗賊など「人鬼系」の鬼。この系譜に位置する鬼たちは、それぞれの人生体験を経て自ら鬼となったもので、前記の3系譜の鬼とも微妙なかかわりあいをみせる。

5 「変身譚系」とも名づけられる鬼。怨恨・憤怒・雪辱など、さまざまな契機から鬼へと変貌を遂げたもので、そうした情念をエネルギーに、復讐を遂げるために鬼となることを選んだものたちである。

 妖怪研究の権威である小松和彦も、『鬼と日本人』(2018年)で、「鬼」という語は古代の『日本書紀』や『風土記』から、中世、近世と生き続け、現代人の生活のなかにも登場すると指摘しています。鬼の代名詞とされる「酒呑童子」や「茨木童子」も中世に生まれた鬼です。芸能や文学のなかの鬼たちも、その多くがこの時代に誕生しました。

 しかし、近世に入って社会秩序が安定すると、鬼は両義的な性格を奪われ、邪悪な力の形象とみなされるようになり、悪として制圧され、封じ込められてしまいます。小松はまた、日本の鬼は「社会的に存在するもの」と「目に見えない想像上のもの」の2つの系統に区分できると言います。一方に鬼とみなされた人々が存在し、他方には、絵画や文献、演劇の中に登場する人々が想像した鬼たちがいます。この2つ系統は、互いに深い関係を取り結んでいることから、鬼のイメージも、画一化しつつ多様性を備えているはずでした。鎌倉時代に描かれた鬼には、角がない鬼がいたり、牛や馬の形をした鬼がいたり、一見しただけでは鬼とはわからない異形の鬼もいました。それがだんだんと画一化されていき、江戸時代になると筋骨隆々で、頭には角(ツノ)があり、肌の色は赤や青、黒、口から牙がはみ出ていて、虎の皮の褌(ふんどし)をつけた姿が、典型的な鬼のイメージになっていきました。

 荻野慎諧の『古生物学者、妖怪を掘るー鵺の正体、鬼の真実』(2018年)は、地質・古生物学者である著者が古文献を渉猟しながら妖怪の正体の「科学的」解明を目指した快著です。鬼や悪魔といった想像上の生物はともかく、角を持つ実在の動物には、シカやウシ、ヒツジ、サイといった哺乳類、カブトムシやクワガタムシなどの昆虫がいる。絶滅種である恐竜のなかにも、トリケラトプスをはじめ特徴的な角を持つものがいます。荻野は角付きの生物に共通する大きな特徴として、すべてが草食であると言います。シカもヒツジも草食です。カブトムシも樹液を吸う草食者です。角のある生物に肉食のものはほとんど存在せず、角は保身やオス同士の争いに用いられるだけです。角は積極的に他の生物に襲いかかるために使用されるものではないのです。それに対し、このルールは架空生物の世界では適用されず、世界各地の神話やおとぎ話にでは、角のある生物が人を襲って食べたり、ほかの生物を困らせたりします。角という記号は神話的、民俗的、かつ通俗的に鬼には欠かせないものになっています。

 

老いた鬼 魂さらし 雪をこき 彷徨い歩く ふるさとの山

魂の 鬼になり落ち 苦しみて 悔いて嘆いて 山焼ける

苦しみに わが身憐れみ 鬼を超え

浄土捨て 鬼に変わるや 我が心 

 

 「魂」という文字の中に「鬼」という字が入っている理由は僧侶でなくても、知りたくなります。「魂(たましい)」は、「云(雲や霧のようなもの)+鬼」で、つまりは、死者の魂、怨霊です。死後に昇天する「たましい」が「魂」で、暫く地上に留まる『たましい』が「魄(たましい、ハク、骨を表す白+鬼)」です。魂の「鬼」は、現在の「霊」とほぼ同じ意味です。人は生きたままでも鬼になり、人を苦しめ、殺します。ですから、人は時には鬼より怖い存在なのです。

 

鬼となり この世見つめて 冬の月

鬼の性 皆に嫌われ この世では 住むところなく 旅急ぐなり

 

 鬼が悪役としての「おに」の意味を持つのは、漢字ができてからかなり後で、仏教の考え方が入ってきてからです。二月三日の節分の夜、「鬼は外」と煎り豆を打っています。この風習は室町時代の公家の家から起きたとされています。それが公家達の間で広がり、やがては庶民に伝達されたとされ、それほど古い話ではありません。

 日本人の大多数は仏教徒で、『般若心経』を知っています。この経典は釈迦の教えのダイジェスト版です。「般若」は古代インドの言葉であるサンスクリット語梵語)の「プラジュニャー」やパーリ語の「パンニャー」に由来する仏教用語で、これらの言葉の音に合わせて漢字を当て、「般若」と書くようになりました。意味は「仏の智慧」です。仏の智慧は修業を積み、その結果として得られる悟りです。ですから、能の般若面が暗示する鬼女とは随分違います。

 智慧と知恵は音が一緒ですが、意味は異なります。智慧は世の中の真理を知ることを指す言葉で、時代によって変化しない普遍的なもの。一方、知恵は頭が良い、賢い、優れているといった意味を持ち、時代とともに変化します。仏教では、私たちはもともと、仏の智慧を授かって生まれてくるとされています。しかし、生きていく上で生じる煩悩によって、智慧を見失ってしまいがちです。そのため、仏の智慧とは学問のように学ぶものではなく、自分自身の中にあって気づくものとされています。

 『般若心経』はその仏の智慧を説く経典。般若心経は大乗仏教の根本経典とされ、真実や本質を見抜く力によって悟りの境地にいたるための大切な教えです。300文字足らずの短い経典ですが、大乗仏教の中核となる思想の一つである「空(くう)」の思想が要約されています。空は「から」のことではなく、「実体がない」ことを指します。空の思想とは「無常」つまり「この世に常なるものはない」と悟ることです。それが「色即是空・空即是色(色は空、空は色である)」という名句で表現されています。