空蝉と蝉時雨

 「手に置けば空蝉風にとびにけり」(高浜虚子)であっても、蝉に変態した成虫は元気で、聞き入れば、クマゼミアブラゼミ、そしてミンミンゼミの合唱があちこちの木々から聞こえてきます。激しく鳴くのはセミのオスだけです。

 『奥のほそ道』で芭蕉は「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠みましたが、その芭蕉は句集によって微妙に異なる、次の句も詠んでいます。

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声(けしき=気色)

(すぐに死ぬという様子は見えず、(一心不乱の)蝉の声が聞こえる。)

やがて死ぬけしきも見えず蝉の声

(すぐに死ぬという素振りも見せず、(一心不乱の)蝉の声が聞こえる。)

 正直なところ、私は上の二つの句の違いがはっきり分かるとはとても言えません。「は」と「も」で何がどのように異なるか、よくわからないのです。私などは「やがて死ぬけしきも見せず蝉の声」もありかと思ってしまうのです。

 蝉の鳴く姿を客観的に描写するか、蝉の鳴く姿に命の儚さを反映させるか、蝉の鳴く姿に蝉の気持ちを重ねるか等々、様々に解釈でき、それが短文の俳句の特徴なのだと思ってしまうのは私だけではない筈です。