ケイトウの花から

 ケイトウは8世紀頃に中国や朝鮮を経由して渡来しました。『万葉集』の中で詠まれていますが、『花壇綱目』(1681)、『大和本草』(1709)に「鶏頭花(けいとうげ)」として紹介されているものが、現在のケイトウに相当するものではないかと思われます。

 伊藤若冲の「鶏頭蟷螂(けいとうかまきり)図」(1789)は、鶏頭花の美しさから逃れられなくなったカマキリを通じて、世俗的な欲望に執着する姿を描いたと言われています。つまり、鮮烈な色彩の鶏頭花の上にカマキリが乗っている図柄は、世俗的な欲望に執着する人間の姿を痛烈に批判したという解釈です。

 子供の頃の田舎には今以上にケイトウが目立ち、私にさえ夏から秋にかけて赤い花が自己主張をしているように見えました。カマキリもケイトウと同じようにあちこちにいて、珍しい存在ではなく、カマキリがケイトウの花の上にいることは至極ありふれた風景だったのです。ですから、私には若冲が珍しい組み合わせを描いたのではなく、ごく日常の自然を描いたと思われるのです。それでも、それは写実的に見えても、それを超えて上述の解釈を許すものに思えるのです。

 例えば、俳句ならすぐに思い出すのは子規の句です。前年に元気に咲いていたケイトウの花を思い出しながら、今年は臥せっていて、花がいくつか見えるだけでも、「きっと十四、五本くらいあるに違いない」と写実を超えて、子規自らの信念を書きつけたのです。

  鶏頭の十四五本もありぬべし

若冲の「鶏頭蟷螂図」にさらに近づけようとすれば、曾根毅の

  鶏頭の俄(にわ)かに声を漏らしけり

の一句があります。この句は若冲を超えて、曾我蕭白が描くような絵にピッタリです。