変化の歴史(3)

小中生のための哲学(7)
[ゼノンのパラドクス]
ゼノンは師パルメニデスの不変の哲学を擁護するために変化に関わる多くのパラドクスを考えています。いずれも「この世界に運動変化が存在するとすれば、矛盾が生まれる、それゆえ、運動は存在しない」というパラドクスです。まず、ランナーがゴールまで到達できるかどうかというパラドクスについて彼の推論を見てみましょう。

スタート地点からゴールまで走り切るために、ランナーは無限に多くの区間を走らなければならない。だが、ランナーが無限に多くの区間を走ることは不可能である。それゆえ、ランナーはゴールに到達することができない。

この推論は妥当(valid)でしょうか。結論は前提から論理的に正しく演繹されており、推論としては妥当です(各自確かめてほしい)。では、この推論は正しいでしょうか。つまり、正しい前提からの妥当な推論でしょうか。最初の前提は正しそうですが、問題は二番目の前提です。ゼノン自身この前提が成立する理由を述べていませんが、次の三つが理由として考えられます。

(1)すべての区間を走るために、ランナーは無限に速く走らなければならないだろう。
(2)すべての区間を走るために、ランナーは永久に走り続けなければならないだろう。
(3)すべての区間を走るために、ランナーは論理的に不可能なことをしなければならないだろう。

アリストテレスは(2)がゼノンの考えていた理由だと推定しています。(1)や(3)の可能性も興味深いのですが、現在の私たちは上のどれも正しくないことを知っています。なぜなら、無限個の区間の和はいつも無限ではなく、有限の場合があることを知っているからです。無限個の区間の和が有限である場合には、例えば、次の場合があります。長さ1の区間に順次半分の区間を加えた結果は次の(不完全な)式で表現でき、2です。

1 + 1/2 + 1/4 +…+1/n +…= 2。
(この式は潔癖な向きには式とは呼べない代物です。そもそも...とは何か不明であり、+という代数演算は有限の数の項についての和でなければなりません。)

(問)無限個の区間の和が有限なら、上の三つの理由が成立しないことを説明しなさい。

「飛ぶ矢」のパラドクスに話を移しましょう。アリストテレスによると、このパラドクスは次のようなものです(『自然学』239b5-7)。

矢がそのサイズと同じ場所にあるとき、矢は静止している。
矢が飛んでいるどの瞬間も、矢はそのサイズと同じ場所にある。
それゆえ、矢が飛んでいるどの瞬間にも、矢は静止している。

このパラドクスに対してアリストテレスは次のように答えています。この推論では、時間は多くの「現在」(不可分の瞬間)からつくられていると誤って仮定されています。「現在」(つまり、ある瞬間)に運動や静止といったものはありません。アリストテレスは「現在=区間」という考えをもっていましたが、それが有効に働くのは歴史を考えたときです。この答えでは瞬間の運動や静止が否定されていますが、瞬間の速さとしての速度は力学では欠かせない概念です(ある瞬間tでのxの速度は、tを含む時間間隔を狭めていったときのxの平均速度の系列の極限として定義されたことを思い出してほしいのですが、残念ながら小中生はまだ極限概念を知らない人がほとんどです)。「xがある瞬間tでxのサイズと同じ場所にある」ことは、「xが瞬間tで静止している」も「xが瞬間tで運動している」も含意していません。ですから、ゼノンの推論が瞬間にだけこだわるなら、前提の1が誤りということになります。
 気になるのは瞬間と区間が曖昧な点です。瞬間と区間のどちらが推論では考えられているのでしょうか。

1矢がそのサイズと同じ場所にあるすべての瞬間に、それは静止している。
2 飛んでいるすべての瞬間に、矢はそのサイズと同じ場所にある。

1は誤りで、2は正しい(どうしてか)。

3 矢がそのサイズと同じ場所にあるどんな区間でも、それは静止している。
4 飛んでいるすべての区間で、矢はそのサイズと同じ場所にある。

今度は、3が正しく、4は誤っています(どうしてか)。瞬間と区間の違いはこれらのことから明らかでしょう。でも、瞬間、区間のいずれであれ、ゼノンの推論の前提はいずれかが誤っているということになります。
 運動が不可能であるというゼノンの推論は誤っていますが、これが原子論の空間概念の問題を明らかにすることになりました。これは後で見ることにしましょう。

*ゼノンのパラドクスに対する過去の解答例
 ゼノンのパラドクスは私たちの時間や空間の概念に内在するものであり、それゆえ、そのような矛盾を含んだ時間や空間は実在しない、とカントは考えました。空間や時間は事物や世界に属しているのではなく、私たちがそれらを観る仕方に属しています。それらは私たちが事物を知覚する形式です。時間や空間を対象に当てはめるのは私たちの精神です。このように考えたカントは、パラドクスから無限を理解することは人間の理性の能力を超えたものだという結論を引き出し、無限を考えようとすると矛盾に陥ってしまうことを示そうとしました。
 ヘーゲルによれば、説得力のある解決は矛盾の両面に光を当て、一方のみが正しく他方が誤りといった結論を出さないことです。正しい解決は、二つの対立する原理を調和させる高次のレベルでのみ可能です(aufheven)。ヘーゲルはゼノンのパラドクスを理性のもつ本質的に矛盾する性質の具体例だと考えました。どんな理性の営みも最初に措定するものは矛盾を含み、それはより高い次元で解消されますが、無限の分割不可能性の矛盾も量についての高次の概念によって解消できます。量の概念は「一」と「多」という二つの要素をもちますが、量が意味しているのは一の中の多、多の中の一です。砂山はまず全体が一つとして考えられ、次にそれが多くの砂粒からなることが理解されます。砂山の正しい理解はその両方を総合したものです。矛盾は片方の側面だけを考えることから起こるに過ぎません。直線が与えられると、私たちはまずそれを一本の線と考えます。直線は連続した、分割できるものです。それを分割すると、多くの部分に分かれ、各部分は一つで単位と考えられます。さらに、その部分はもっと小さな部分に分割できます。この過程は限りなく続けることができます。すると、ゼノンのパラドクスが起こります。でも、これは誤った見方の結果に過ぎません。一つのものとは違った実在として多数を考え、次に多数のものとは違った実在として一つのものを抽象するのは誤りです。それは多数でも一つのものでもなく、一つのものの中の多数、つまり、量です。
カント、ヘーゲルの解決はその後の展開に大きな刺激を与えましたが、一般に受け入れられたわけではありませんでした。現在では数学者、物理学者、科学哲学者の間でゼノンのパラドクスに対する標準的な対応策ができています。空間、時間、運動の概念は根本的に変化し、また直線、数、測度等の数学的概念も大きく変わりました。ゼノンが使った整数は実数に置き換えられなければなりません。1次元の連続体、つまり、自然な順序をもつ実数の標準的モデルはゼノンが想像したものとは根本的に異なっています。この新しい直線概念が空間での距離、時間的な持続の科学的概念の基礎となります。それはゼノンが考えた加算(加付番、countable)無限の点(整数)の和ではなく、非加算(非加付番、uncountable)無限の点(実数)の和です。このような仕方でのみ、1次元の直線や2次元の平面が0次元の点からつくられるように、高次の次元の対象について語ることができます。直線の点は稠密で、二つの点の間には三番目の点が必ず存在します。直線上の点の数はゼノンが考えていたよりはるかに多いのです。実数の枚挙できない無限は整数の枚挙できる無限よりずっと大きいのです(どのくらい大きいか)。また、数の無限列の和はゼノンの時代とは違って、有限であることができます。こうして、現代の数学者や科学者にはゼノンの推論は今や誤りとわかった仮定に基づいており、彼が考えたパラドクスは現代の数学の中では起こり得ないと言うことができます(でも、物理学では事情が異なります)。

*「極限」概念は高校に入ってから学ぶことになっています。ですから、小中生は誰も知らないことになっています。ということは、小中生はゼノンの立場で考えていると言えるかも知れません。それが、高校で実数の構造を学び、パラダイムシフトが起こるという訳です。高校までに学んだ古典物理学パラダイムが、大学で量子力学を学ぶことによってシフトが起こることとよく似ています。ここで述べたような仕方で「極限」を理解し、量子力学でそれをもう一度疑ってみるなら、その人は知的好奇心の極限を体験できる筈です。