世界の出来事が決まり、私たちも何をするか決める。そのとき、出来事と行為、あるいはタスクの間にある違いは何なのか。SFに登場するような大袈裟な名称の「スーパータスク(Supertask)」とは、「有限の時間間隔の中で無限の操作を行うタスク、課題」を意味している。私たちは有限時間内で有限回数の操作しか実行できない。それが普通の人間的なタスク、行為であるのに対して、無限の操作をするという意味でスーパータスクと呼ばれてきた。
スーパータスクの歴史的に最初の例はゼノンのパラドクス。アキレスが100メートル走るにはまず50メートル走る必要があり、そのためには先に25メートル走る必要があり、さらにそのためには12.5メートル走らなければならない…これは限りなく続き、結局アキレスは無限の地点を通過しなければ、ゴールには到達できないことになる。ゴールを目指すアキレスはスーパータスクを実行しなければならず、それはこの世界では不可能であるため、運動は不可能となる。これが運動に関するゼノンのパラドクスのスーパータスク版である。
ゼノンのパラドクスの解析学的な解決は運動が極限(limit)概念によって表現可能であることに基づいていた。これは運動する区間のどの分割もゴールではないが、その分割の極限がゴールであることを数学的に示すものであり、ゴールに到達できることをスーパータスクとして示すものだった。
極限は連続的な変化の表現に必要だが、変化が離散的な場合はどうであろうか。Sorites(連鎖論法のパラドクス)は、山盛りのピーナッツの皿から一個つまんでもやはり山盛りのままである、n個つまんでも山盛りのままなら、(n+1)個つまんでもやはり山盛りのままである、という伝統的なパラドクスの一つだった。また、数学の授業で学んだ数学的帰納法は次のような公理で、証明の方法として多用されている。
0はFである。
nがFなら、n + 1もFである。
どんなnにつてもFである。
(記号で表現すれば)
F(0) F(n) → F(n + 1)
∀nF(n)
これをSoritesに応用して、F(n)を「ピーナッツn個は山盛りでない」としてみよう。ピーナッツ1個は山盛りではない。だが、ピーナッツが何個でもあれば、山盛りである。すると、ある数より多いか少ないかで山盛りかそうでないかが分かれることになる。
F(0) ⏋∀nF(n)
∃n(n≧0∧F(n)∧⏋F(n + 1))
この線引きができないのが「曖昧な」述語のもつパラドクスである。
これが連続的な場合はどうなるだろうか。アキレスが区間[0,1]を走る場合である。F(n)を、アキレスは地点nでゴールしていない、としよう。スタート時点ではゴールしていないので、F(0)だが、ゴール時点では F(1)である。Gを部分和の集合で収束条件を満たしているとすると、
F(0) ⏋F(1)
∃G(∀x(x∈G→F(x)∧⏋F(supG))
G=[0,1]のとき、supG=1となり、アキレスはゴールできることになる。これは超限帰納法(transfinite induction)が成り立つことであり、それはスーパータスクを実行することであり、この物理世界では不可能、また連鎖論法のパラドクスも生まれてしまう。スーパータスク、Sorites、帰納法が同じ問題を異なる見方、方法で捉えている点を理解してほしい。
スーパータスクがもたらす哲学的な問題は、数学的な操作と自然の中で起こる出来事の間にどのような関係を想定できるかという問題である。また、自然の数学化が如何にして可能かという原理的な問題とも関連している。そこで、スーパータスクの典型的な例を挙げてみよう。
・トムソンのランプ(Thomson, J. (1954/55), Tasks and Super-Tasks, Analysis, 15, 1-13.)
ランプの状態はいつでもオンかオフのいずれかである。時刻が0の時、ランプはオフで、時刻がt = ½の時、オンに変わる。時刻が¾ (= ½ + ¼)の時、ランプはオフに変わり、時刻がt = ⅞ (= ½ + ¼ + ⅛) になると、オンに変わる。この単純な繰り返しを続けたとすると、時刻がt =1の時、ランプはオンかオフのいずれになるか?
ランプがオンで始まるなら、次は必ずオフになるので、最後の状態がオンではあり得ない。ランプがオフで始まるなら、すぐ次はオンになるので、最後の状態はオフではあり得ない。しかし、ランプの状態はオンかオフのいずれかでなければならない。これは矛盾である。
・トリストラム・シャンディ(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman は9巻からなり、1759年に最初の2巻が刊行された。他の7巻も1761年から1767年の間に刊行された。)
トリストラム・シャンディはスターン(Laurence Sterne)の小説の主人公である。彼の自伝はとても詳細を極めていて、一日の出来事を叙述するのに1年の年月を費やしてしまうほどである。彼が不死でなければ、自伝は完成しないようにみえる。また、永遠に生きることが許されても、自伝の完成には何の助けにもならないようにみえる。なぜなら、自伝の叙述はますます遅れ、書き残しがますます増えていくようにみえるからである。だが、最後には彼の毎日が記録に残されることになる。
・ニュートン力学の非決定論
「物理的な対象の無限の集合はニュートンの運動法則に一致する仕方で自発的に励起できる」という命題はニュートン力学では偽の命題にみえる。だが、その証明は以下の通りである。質量mの質点が1メートルの線上に1, ½, ¼, …と並んでいるとしよう。最初の質点が1秒に1メートルの速度で次の点まで押され、衝突する。衝突で最初の質点の運動量は次の質点に移動し、最初の質点は静止する。次から次と衝突が続き、最後にはすべての質点が静止する。ニュートンの法則は時間に関して不変であるから、時間を逆転しても同じように成立している。すると、逆転した衝突の過程は時刻t>0で何の原因もなく始まることになる。すなわち、最初の命題が成立する。そして、これは明らかに決定論の反例となる。(Laraudogoitia, J. P. (1996), A Beautiful Supertask, Mind, 105, 81-83. Laraudogoitia, J. P. (1997), Classical Particle Dynamics, Indeterminism and a Supertask, British Journal for the Philosophy of Science, 48, 49-54.)
三つの例に登場する無限の系列は、物理的な過程なのか、それとも物理的な過程を表現する数学的な過程なのか。さらに、連続的な系列や過程の存在と微積分の適用可能性の間にはどのような関係があるのか。タスクとスーパータスクの間は実はもっと微妙なのかも知れない。