私は過去を使って未来を知る
私は知識を使って未来を知る
上の二つの文は多くの人が納得するもので、知識が過去に得たものであることを考えれば、いずれも知ることに関する時間の矢の存在を示しています。というのも、次の文を正しいと判断する人はまずいないからです。知ることは時間に関して非対称的なのです。
私は未来を使って過去を知る
過去と(現在を含めての)未来、記録、知識と予測、予想の間には密接な関係が存在します。私たちにとって過去とは記録であり、知識を生み出す源になってきました。一方、未来は想像であり、どこかぼんやりしています。これが私たちの認識に関する常識的な実感ではないでしょうか。
ところが、普遍的な知識は過去や未来という時制に関係なく、成立する知識であり、時間に関して対称的であることになっているのです。これは、数学の定理が過去も未来も無関係に真であることによく似ています。物理学の理論は数学を主要な道具にしてつくられていますから、その結果として数学のように過去も未来も区別しなくて構わない物理学のモデルができ、そのモデルのもとでは過去も未来も同じように知ることができます。これは決定論の主張と重なる部分をもっています。
時間の矢は数学的な世界にはないものですが、その時間の矢が物理世界に存在するなら、過去を忘れることは未来をうまく知ることができないことになりますし、未来を知ることができないと、過去の何かを忘れていることを意味することになります。物理学的な時間の矢は、1927年に英国の天文学者アーサー・エディントンが提唱した概念で、時間に方向がある、時間が非対称的であることを表す謂い回しです。物体は空間内の上下左右、そして前後とどの方向についても対称的に移動できるのに対して、時間は過去から未来に向けて非対称的にしか進むことしかできません。なぜ時間は過去の方向には進まないのかは、物理学の未解決の問題の一つです。物理世界でなく私たちの心理世界に時間の矢が存在するかどうか、これも未解決の問題なのです。ミクロなレベルでの物理的過程では現象が時間対称的であると考えられています。ですから、時間の方向が逆転したとしても、それらを記述する理論的記述は真のままです。でも、マクロなレベルでは、そうでないように見えることがほとんどです。つまり、日常の物理世界では明確な時間の矢が存在するのです。
エディントンはThe Nature of the Physical World(1928)の中で、宇宙での時間の一方向性を表現するために「時間の矢」という言葉を使ったのです。エディントンによれば、矢印は乱雑な要素の漸進的な増加の方向を示しています。熱力学の性質についての長い議論の後、彼は物理学に関する限り、時間の矢はエントロピーの性質であると主張しています。
私たちの周りは不可逆な現象だらけで、可逆的な現象はまずありません。例えば、茶碗がテーブルから落ちる様子を思い浮かべてみましょう。茶碗がくだけ散り、お茶がこぼれます。一方、くだけた茶碗がくっついて、茶碗がつくられ、こぼれたお茶がその茶碗に戻る現象は不自然で、あり得ないと思われています。
このように未来への時間と過去への時間がはっきり違うことはとても自然的です。でも、物理学的に考えるとこの考え方が異なってくるのです。驚くべきことに、物理学的に時間を考えると、 時間は過去方向も未来方向も基本的に変わらないのです。例えば二個のボールが衝突する場合、二つのボールは互いに接近し、衝突し、離れて行きます。この現象を録画し、逆向きに再生しても、物理法則に反することは何もありません。つまり、ボールの衝突は時間について対称的なのです。これを一般化すると、物理理論は時間について対称的なのだということになります。 ところが、K中間子という素粒子の崩壊現象は時間対称的ではなく、ずれが存在します。でも、これは日常的にみる過去と未来の時間方向の違いを生み出すものではありません。
熱力学には「第二法則」と呼ばれる法則があります。その法則は、乱雑さの度合を示すエントロピーという量が未来に向かって増大すると主張しています。これこそ過去と未来の非対称性の理由だとと考える人もいるかも知れません。しかし、これは経験的な法則で、なぜエントロピーが増大するかは実はよくわかっていないのです。
では、なぜ時間は未来方向にしか流れないのでしょうか。例えば、この世界がビデオテープのような世界だと考えてみましょう。すると、疑問が一つ出てきます。なぜこれほどまでに二つの方向が非対称的なのかという疑問です。始まりの端にはビッグバンが存在し、もう片方は無限に続いていて、とても非対称的です。
私たちは毎日「時の流れ」の中で生きています。命あるものはいつか必ず死に、形あるものもいつか必ず壊れます。日常生活ではこれは言わずもがなの、当然のことですが、物理学にとっては古くからの大問題で、「時間の矢」と呼ばれてきました。厳密に言うと時間の矢とは、時間が正の向きに進むに従って、ある特定の現象(例えば物が壊れること)の方が、その時間反転の現象(物が形作られること)よりも頻繁に起こることを意味しています。ビデオを見てそれが順回しか、それとも逆回しかがわかる場合、そのビデオに映っている事態には時間の矢があると言います。なぜこれが物理学にとって大問題であるかというと,「弱い相互作用」を除く三つの相互作用が時間反転対称性を持っているからです。微視的なレベルで運動を記述する方程式のほとんどは、ニュートンの運動方程式、マクスウェル方程式、シュレー ディンガー方程式を含めて時間反転対称な微分方程式なのです。したがって、それら微分方程式の解も時間反転対称であるのが当然ということになります。実際、理想的な調和振動子のビデオ映像は順回しか、逆回しか答えることができません。でも、現実には時間反転対称性を破る現象が溢れています。それを物理学はどのように説明すればよいのでしょうか。ここでは微視的な輻射場中の二準位原子に話を絞って、時間の矢が現れる仕組みを考えてみましょう。励起状態にある二準位原子は光子を放出して、次第に基底状態へ崩壊すると考えるのが自然ですし、それが実験でも観測されます。この現象は明らかに時間の矢を持っています。もとの量子電磁力学(QED)は時間反転対称なシステムなのに、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。まず第一段階で、無限体積中のシュレーディンガー方程式には時間反転対称性を破る解が存在することが示されます。元の方程式の時間反転対称性を反映して、そのような解は必ず互いに時間反転対称な「崩壊(共鳴)状態」と「成長(反共鳴)状態」のペアで現れます。時間の矢が現れることを説明するためには、なぜ崩壊状態が優先して選ばれるのかを示す必要があります。初期条件問題、つまり「ある状態が初期条件として与えられたときに、その後で何が起こるかを問う問題」の場合には自動的に崩壊状態が選択され、逆に終末条件問題、つまり「ある状態が終末条件として与えられたときに、その前に何が起こったかを問う問題」の場合には自動的に成長する解が選択されるのです。輻射場中の二準位原子の問題は初期条件問題なので、崩壊状態が優先して選択されます。
少々面倒な話になりましたが、時間対称性が主役の物理学、時間非対称性が主役の生活世界をそれぞれ説明してきました。時間の矢はいずれにもあるのですが、意識、認識、知識、情報が飛び交う心の世界での時間の矢はどうなるのか、「忘れる」、「知る」を中心にそれを次に考えてみましょう。