感じる無常から、知り、味わう無常へ

 人々は自分の住む世界が無常であるのに常とみなし、苦に満ちているのに楽と考え、自我などないのに我があると考え、不浄なものを浄いと誤解している、と悟ったのが釈尊。現象は一刹那一瞬に生滅する物理的な変化、人が死んだり、草木が枯れたりするような生命的な変化、それらが無常と呼ばれてきました。物理現象、生命現象は無常で、絶え間なく変化するものです。これが仏教の第一義であり、大乗仏教では、俗世が「無常」であり、仏や涅槃が「常住」とされています。

 俗世を描いた『平家物語』、『徒然草』、『方丈記』などは仏教的無常観が溢れ、無常は日本の中世文学の断トツの主題になっていました。そして、不変的、永遠的、普遍的なものを追求する西洋人に対し、日本人は自然現象に万物流転、諸行無常を感じ、そこに美を感じるなどと解釈されてきました。「無常」は、哲学というより美学、美意識と言った方が適切で、そこに西欧的な「不変の原理を知る」と日本的な「無常の美を感じる」の違いを認めることができます。

 「無常」を説明するとなると、変化の様子を正しく表現するために変化のルールを見出して、それを形式化することが必要です。でも、変化のルールが存在すれば、そのルールも変化する筈ですから、そうなると、ルールの意味がなくなってしまいます。この詭弁によるルールの非在は、「無常」と整合するように見えます。ところが、変化を測定する、測ることによって表現を精緻にしようとすれば、尺度や単位が不可欠です。変化の正確な表現には文学的に感じるだけではなく、測定装置によって正しく知ることが求められます。ここには「感じる無常」と「知る無常」の違いが認められます。

 そこで、無常を知るための物理学の方法を具体的に見てみましょう。さて、物理学の真髄の一つが保存則。エネルギーや質量が保存されることが大前提になって物理世界が考えられ、その変化が理解されてきました。このような世界観に対峙するのがロマンティックな「破壊と再生」の世界観です。破壊と再生の際の真髄は生命とその進化にあります。でも、コピーする、真似る、模倣する、進化するといったエレガントな行動は運動の物理学には表だって登場しません。物理学と化学の一部はとても無骨で、くそ真面目、面白みがない単調な世界であるのに対して、生物学はつくり、壊し、またつくることを繰り返しながら、何が生まれるかわからない、予測困難のハラハラする世界です。

 ネーターの定理によれば、保存則(conservation law)は物理的変化の前後で物理量の値が変わらないことを主張しています。つまり、物理現象が時間的に変化していく際、考えているシステム内で、ある物理量の総和が変化しないのです。時間的な変化、因果的な変化は万物流転の基本であり、すべては変化し、止まることがないことになっているのですが、それでも変化しない物理量があるというのが保存則の主張です。つまり、万物流転ではないのです。月並みで正確な謂い方をすれば、万物流転は誤りで、ある物理量は不変であり、その不変なものこそ普遍的である、ということになります。

 ネーターの定理により、システムがもつ一つの保存則はシステムのもつ一つの対称性(symmetry)に対応することがわかります。保存則と対称性の論理的な対応関係は以下のようになっています。

エネルギー保存則 ⇔ 時間の並進対称性(時間の向きに無関係)

運動量保存則 ⇔ 空間の並進対称性(空間の前後左右に無関係)

角運動量の保存則 ⇔ 空間の回転対称性

電荷の保存則 ⇔ ゲージ変換の対称性

(「エネルギー保存則が成り立つことと、物理法則が時間の過去、未来の方向に関わらず成り立つこととが同値である」というのが最初の表現の意味であり、他の三つも類似の意味である。)

 ネーターの定理は、システムに連続的な対称性が一つ存在するとき、それに対応する保存則が一つ存在する、そして、システムに連続的な対称性が存在するとき、それに対応する保存則が存在する、と主張しています。つまり、保存則と対称性は互いに他の必要十分条件になっているのです。

 俗世である物理世界は無常で、変化に溢れています。そして、その無常を知るにはネーターの定理のような不変のルールが不可欠となります。無常を感じるだけでなく、無常を知ることによって、さらに無常を深く味わうことができるのです。