非常識な仮説から生まれた常識とそれへの挑戦:日曜の午後の微睡の中で

 ユークリッド幾何学は2000年以上前から知られている中学校でお馴染みの幾何学。それが述べられている『原論』では「点とは部分をもたないもの」と定義され、「部分をもたない」ことが「サイズがない」ことを導くことから、とても非常識な定義だと思わざるを得ません。サイズがなければ存在できないのが常識の筈なのですが、サイズのない点が存在するのがユークリッド幾何学なのです。ユークリッド幾何学は直線、円などの定義、そして、それらが満たすべき五つの公理(公準)から構築されています。最後の公理は「平行線の公理」と呼ばれ、「直線L上にない点を通りLと交わらない(つまり平行な)直線が正確に一本引ける」という主張です。これが独立した「公理」なのか、他の四つの公理から導出できる「定理」なのか、という問題の議論がずっと続き、19世紀にようやく決着がつき、独立していることがわかりました。この『原論』は、数学のみならず、すべての学問の(言葉としての)表現手段になってきました。
 非常識な点概念から始まり、それから幾何学がつくられ、物理学の言葉として世界を知るために使われ、その結果、今では常識的な古典物理学がつくられました。私たちが当たり前のように考える日常の物理世界は非常識な点概念によって支えられている世界なのです。非常識が常識を生み出した典型的な一例です。
 ギリシャの哲学者たちは哲学や物質だけでなく、社会や人間にも関心をもちました。その後のキリスト教でも魂の救済が叫ばれ、人間は肉体だけでなく精神ももつと信じられていました。点と同じように精神、魂、心は見たり触ったりできないものです。にもかかわらず、それらを私たちがもっていることは疑えないことだと信じられていました。その原動力は言語にあるのですが、当初から私たちは自らを他の生き物から区別するために心の存在を仮定し、その仮定に基づき人間や社会について途方もない砂上の楼閣を築き、そこで様々な議論を展開してきました。ですから、心の存在は点の存在とはまるで異なる、途方もない非常識なのですが、それこそが常識なのだという非常識の中で言葉巧みに扱われてきたのです。
 プラトンは霊魂について単一の説をつくったというより、それぞれの対話篇で霊魂のある働きに照明を当てて探究しました。『国家』では霊魂の三部分説を考え、理性と意思と欲求と分類しました。そして、理性にこそ霊魂全体を統御する力を認めました。『パイドン』、『メノン』では永遠の真理を認識する方法として想起論を考え、その前提として「霊魂不滅説」を唱えました。また、アリストテレスは生物学から出発し、生きていることはある目的に向けて自ら動くことと捉え、霊魂を生命活動そのものとしました。
 中世キリスト教思想は、神の似像という人間観を受け継ぎ、その特徴を人間固有の霊魂として理解しました。ここに万人が心の世界を生きる端緒が拓けました。それは人が理性的霊魂の二つの次元を通じて、二つの可能性を披きつつ生きることを意味した。その一つは、霊魂の理性的自由意志次元を通し、神や霊(プネウマ)の世界および愛・真・善・美などの精神的世界を生きる可能性です。二つ目は、霊魂がもつ身体活性化の次元を通じ、自分の身体やそれに連なる社会生活さらに動植物などを含む自然界に創造的に関与する可能性です。
 他方で中世哲学は、霊魂、心に巣食う自由意志の分裂や利己的な理性使用などの罪性が、人間から上述の二つの可能性を奪っている点をも深く洞察しました。そこで神の恩寵により霊魂に諸徳が形成され、祈りや修徳行による霊魂の浄化を媒介に神への超越しつつ心の可能性を生きる神秘主義や修道制が展開されました。これらが正しいことだという常識が中世を支配したのですが、そのスタートは「心の存在」という仮説だったのです。

 どこにもないもの、何も見えないものについて、それらが存在すると仮定することは常識的なことではなく、途方もなく非常識なことで、賭けのようなものです。しかも、上述の二つの仮定はあらゆる点で好対照で、人のもつ二つの特徴を象徴しています。一つの仮定は「点の存在」であり、他の仮定は「心の存在」です。いずれの存在も観察できないもので、見ることも触ることもできません。確かに、感じるという状況証拠は十分あるのですが、それでは足りないというのが経験主義の基本です。
 大きさがないのに存在するという主張は常識的どころか、非常識でクレイジーです。大きさのない点、幅のない線、太さのない面など、非常識な図形の特徴は非常識な点の存在から始まるのです。そのようにスタートした幾何学は物理学にそのまま適用され、極めて常識的な古典力学の表現手段として使われました。大袈裟に言えば、非常識な点が常識的な古典的世界観を生み出したのです。
 二番目の非常識は「心の存在」です。誰も見たことのない魂、触ったことのない心を人間はもっているという考えは、言葉を操り、その言葉が心を様々に語るがゆえに自然に認められることになったと推察できますが、よく考えれば、極めて非常識な仮説です。その典型的な表明の一つがデカルト心身二元論です。点と違って心は野放図な想像によって語られ、不健全な過密状態を呈してきました。心についての非常識な常識は未だに日常生活を支配し続けています。
 私は点を仮定した数学者は尊敬したいし、心を仮定した哲学者や宗教家は賞賛したいのですが、点の仮定は信じるとしても、心の仮定には大いに疑問をもっています。ささやかでもきらりと光る仮説が「点の仮説」、大胆で罪作りな仮説が「心の仮説」です。点の仮説と論証は幾何学だけでなく解析力学の言語となり、私たちが習う常識的な古典的世界観を生み出しました。「心の仮説」は思い切り拡大解釈され、哲学、宗教、常識のどこにも溢れ、非常識な仮定であることはすっかり忘れられ、心の存在は当たり前の事柄として20世紀中葉まで受け入れられてきました。
 でも、この物語はこれで終わりではありません。高校で学ぶ幾何は、平面や空間に「座標」を入れた「解析幾何学」。それまでコンパスと定規で扱ってきた図形は、座標を導入することで代数的、解析的に扱うことが可能となり、複雑な曲線も扱えるようになります。17世紀後半にニュートンは力学を記述する際、この解析幾何学をはっきり自覚的に使い始めました。それが「微積分学」です。座標という「空間の新しい捉え方」が物理学を変えたのです。
 では、物理学での点はどのようなものでしょうか。物体の並進運動(物体のすべての点が平行に運動)を考える場合、物体の大きさや材質、回転や変形を考慮する必要がない代わりに、「その物体の全質量が、その物体を代表する一点に集中している」と仮定して議論を進めるのです。ですから、「物体を代表し、全質量がそこに集中したと仮定できる点」が質点なのです。例えば、物体に力が作用した場合、力は質点に作用したと見なされます。質点は大きさをもちません(これはユークリッド幾何学と同じです)。並進運動を考えるときは、その物体を代表する一点のみを対象にすれば十分です。でも、ある点が代表点として認められるためには、「その点に全質量が集中していると見なしてよい場合」に限られます。地球の公転運動は並進運動なので、地球を質点と仮定できます。最後に、ニュートンはその哲学的考察から絶対時間、絶対空間が実在すると結論しました。感覚できる個物が実在し、その個物が含まれる空間、時間も実在することは今の私たちの多くも常識として受け入れています。世界中どこにでも同じ空間と時間があるとほぼ誰しも思っているのではないでしょうか。
 さて、これまでの話は常識の範囲内の事柄に過ぎないのですが、それでも大きさをもたない点が最初から想定され、それをしっかり使って幾何学と物理学がつくられています。常識という概念が非常識を含んでいる例になっていますが、その非常識な点概念を仮定すれば、後はとても常識的だと誰もが感じます。この物理学よりもっと常識的なのが博物学で、奇妙なもの、不思議なものの収集分類が中心で謎の追求がとても常識的なのです。さらに常識的なのが人の心についての知恵なるもの。日常生活での心の理解と利用だけでなく、心や意識、認識に関する哲学者たちの議論は見事に思弁的で、思想の議論と似たレベルのものでした。そこで想定されていたのが「常識心理学」と呼ばれる、実は正体不明のあやふやな言明の集まりなのです。ロックから始まるイギリスの哲学者たちは経験と心の関係を解明することにこだわりましたし、カントの認識に関わる考察は認知についての科学的な解明のスタートラインになる筈のものでした。
 さて、私たちが住んでいる常識的な世界では、2点間の距離を「2点を結ぶ最短曲線である線分の長さ」としています。しかし、最短曲線は線分でよいのでしょうか?ユークリッド幾何学に縛られすぎではないでしょうか?もし、空間が歪んでいれば,最短曲線は線分ではなく、平行線公理が成り立たないシステムを再構築する必要があります。その一つが19世紀に開発された「非ユークリッド幾何学」。非ユークリッド幾何学では双曲円盤の上での幾何学となりますが、双曲円盤とはいつまでたっても境界の円に辿り着けない「双曲距離」が入った円盤なのです。そのため、最短曲線(測地線)は曲がってしまい「測地線L上にない1点を通りLと交わらない測地線はたくさん描ける」ことになります。
 それから100年余り、現代幾何学の進歩は目覚ましいものがあります。空間のより大域的な曲がり具合を記述する「位相幾何学」、空間や物質の対称性を記述する「リー群」、物理学の大統一理論と「接続の理論」の結びつきなど、幾何学は、空間のみならず、重力、素粒子などを記述する言葉を与えてくれます。また、近代物理学において、量子に粒子性と波動性をもたせることで量子力学が生まれ、最近は、粒子を「点」ではなく「ひも」と見なす弦理論の研究が盛んです。ユークリッド幾何学の点の最初の定義(「点とは部分をもたないものである」)の変更が求められているのかも知れません。
 人と区別がつかないAIがつくられていく長い過程は、常識を非常識の工夫によって再現していく過程なのです。20世紀の中葉からコンピューター科学が進展し、それまでの論理学や数学基礎論の研究と重なることによって、人間の思考や行動がどのように遂行されるかの研究が始まりました。感覚されるデータをもとに信念と欲求が心の中でつくられ、それが意識の中味であり、意識こそ心だと考えたデカルト以来、人々は心が意識で、意識が存在すると考えてきました。その常識が変わるのが19世紀末のフロイトの「無意識」ですが、意識に加えて無意識も存在すると修正されただけでした。
 20世紀に入り、大きな転機となったのは論理学や数学基礎論。理性という心と並ぶ曖昧な概念は「正体見たり枯れ尾花」で、かつては人間の人間たる所以として価値あるものと敬われたのですが、感性などより遥かに単純な仕組みからなる計算装置で実現できるものに過ぎないことが明らかになります。「推論する、論証する、証明する」ことは「計算する」ことと同じであり、この計算システムは原理的に不完全だということが証明され、コンピューターの時代が始まります。AIの時代はこのように論理学や数学基礎論からスタートしたのです。20世紀の中頃までは人の心の理性能力が計算能力に過ぎないことなど非常識極まりないものとかんがえられていました。現在は誰もそのようには思いませんが、それでも心への神話、迷信は根強く、神社仏閣は賑わっています。
 
 点も心も非常識な仮説として生まれ、その結果が多くの人の常識を形成し、それが受け継がれてきました。いずれの常識も20世紀に入り、大きく変わります。常識だった古典物理学は非常識に変わり、常識だった心の存在はAIがコピーしようとしています。本来非常識からスタートしたのですから、そこから生まれた結果が安定した常識であるというのはおかしな話なのです。現在は非常識と思われている事柄が新しい常識に変わり、仮説も別の非常識に代わることがあると考えると、何か未来は夢に溢れていると思えてきませんか。

*これが日曜の午後の微睡の中で浮かんだもので、きっと春の陽気に浮かれてしまったのでしょう。