君ふるさとをおもひたまふことなかれ(改訂版)

 以前のエッセイ「君ふるさとをおもひたまふことなかれ」とその追記で私が強調したかったことの一つだけをくどいようですが、再度述べておきます。
 「母校を愛し、母国を愛す」ことと「家族を愛し、故郷を愛す」こととの間には大きな違いが認められます。まずは「愛す」とはどのようなことかと疑問をもつ人が少なからずいる筈です。ごく常識的に考えれば、「母校を愛し、国を愛す」場合は抽象的な事柄が頭を過り、「家族を愛し、故郷を愛す」場合は具体的な事柄が思い浮かぶのではないでしょうか。そのような幅が「愛す」にあるのだということを認めるだけにして、「愛す」の個々の内容は読者諸氏に任せることにしましょう。母校や母国への愛は学習することができ、その学習の結果が愛なのですが、父母兄弟と自らが生まれ育った故郷への愛は学習もさることながら、それ以前の生得的なものが働いていることを否定できないのです。
 学習によって獲得された愛と本能的で生得的な愛と言うと、違ったものとして峻別できそうに思えるのですが、それは無理というもので、故郷を愛することと母国を愛することが重なる場合や、融合する場合さえしばしばあります(例えば、好きな料理、嫌いな食べ物を考えると納得できるでしょう)。ですから、母国への愛も故郷への愛も同じ感情を引き起こし、感涙に咽ぶことがあるのです。感情は生得的、獲得的の区別なく、同じように反応する場合が多いからでしょう。
 でも、母国への愛と故郷への愛は確かに違った面をもっていて、決して同じではありません。脱亜や興亜の思想は状況が異なれば適用することができず、その証拠に現在の状況では的外れで時代錯誤的な信念でしかありません。時代に応じてその評価が変わるのはそれが獲得された知識、学習された知識だからです。一方、家族愛や郷土愛はどのように状況が変わろうと不変なものをもっています(少なくてもそう信じられてきました)。そして、それらが生得的だからというのが不変的であることの理由です。
 それゆえ、脱亜論も興亜論も思想信念である限り限定的なものでしかないのですが、「君ふるさとをおもひたまふことなかれ」と言われると、故郷が好きか嫌いかは別にして、故郷の存在を無視する、あるいは否定するかのようなその物言いに対し誰もが反撥するのです。