昨日は七夕だったが、「七夕」を「たなばた」と読むのは至難の技。七夕は「しちせき」とも読み、古くからある日本の行事ということになっている。子供の頃は七夕が近づくと、ハロウィーンのように妙に胸が高鳴ったものだが、その由来や意義となると何とも怪しい限りなのである。
毎年7月7日の夜に、願いごとを書いた色とりどりの短冊や飾りを笹の葉につるし、星に祈るという習慣はいまでも廃れず、幼稚園や小学校だけでなく、スーパーでも行われている。伝統が揺るぎないのが私には謎なのである。子供の頃、たくさんの短冊をつるして織姫と彦星に願いごとをしたのだが、七夕の意味は曖昧なままだった。
なんだか謎だらけとなれば、七夕の由来、起源を確かめたくなるのが人の常。その起源には多くの説があるが、主な説は次の三つらしい。
(1)日本の神事だった「棚機(たなばた)」
(2)おりひめとひこぼしの伝説
(3)奈良時代に中国から伝来した「乞巧奠(きこうでん)」
「棚機(たなばた)」は古い日本の禊ぎ(みそぎ)行事で、乙女が着物を織って、棚にそなえ、神を迎えて秋の豊作を願い、人々の穢れをはらうというもの。選ばれた乙女は「棚機女(たなばたつめ)」と呼ばれ、川などの清い水辺にある機屋(はたや)にこもって神のために着物を織る。その際に使われた織り機が「棚機」(たなばた)。この行事はお盆を迎える準備として7月7日の夜に行われるようになった。現在「七夕」という二文字で「たなばた」と当て字で読んでいるのも、これに由来するらしい。
琴座のベガと呼ばれる織女(しゅくじょ)星は裁縫の仕事、鷲(わし)座のアルタイルと呼ばれる牽牛(けんぎゅう)星は農業の仕事をつかさどる星と考えられていた。この二つの星は旧暦7月7日に天の川をはさんで最も光り輝いているように見えることから、中国ではこの日を一年一度のめぐりあいの日と考えられた。
「乞巧奠(きこうでん)」は中国の行事で、7月7日に織女星にあやかってはた織りや裁縫が上達するようにと祈る風習から生まれた。庭先の祭壇に針などをそなえて、星に祈りを捧げる。やがて、はた織りだけでなく芸事や書道などの上達も願うようになった。平安時代にその話が日本に伝わると、宮中の行事として七夕行事が行われるようになった。
江戸時代になり、七夕行事が五節句の一つとなる。すると、七夕は庶民の間にも広まり、全国的に行われるようになった。人々は野菜や果物をそなえて、詩歌や習いごとの上達を願った。五つの色の短冊に色々な願い事を書き、それらを笹竹につるし、星に祈る祭りに変わっていった。
こんな風に書いてきて、だから何なのか、と問いたくなる。七夕はなんだかわからないミックスされた風習でしかない。短冊と絵馬、恋人の逢瀬等、どれもシナリオとすれば人心を奪う要素が溢れているのだが、一つの物語として完成していない。断片的な話がミックスしていて、誰かに完結した「七夕物語」を書いて直木賞でも獲ってほしいというのが正直な気持ちである。七夕の一貫した物語はなく、その断片的な部分物語しかないのだから、ついそんなことを考えてしまう。最もそんなことを言えば、盆も正月も仏教とは関係がなく、その意味では七夕と似たり寄ったりである。そして、それこそが日本文化の大きな特徴だったのではないか。日本では混同と混合は混淆や習合と紙一重だったのである。
*画像は歌川広重「市中繁栄七夕祭」名所江戸百景