節分に(1)

 「節分」は文字通り「季節の分かれ目」のことで、立春立夏立秋立冬の前日が節分で、年に4回ある。春の節分だけが現在まで残っているが、その理由はこの日が一年の初めと考えられていたため。私たちにとって年の初めは新暦の1月1日だが、昔の人々にとっては、冬至、旧暦の1月1日、春の節分の三通りあった。だから、立春の前日(通常は2月3日)は節分で、「豆まき」で鬼を追い払い、福を招く除招福が行なわれてきた。

 宮中で大晦日に行なわれていた「追儺式(ついなしき)」が豆まきの始まりで、それは「災いを鬼に喩え、悪鬼を追い払い、疫病を取り除く」という中国伝来の儀式だった。平安時代追儺は方相氏と呼ばれる鬼役が手下役の役人を引き連れ、宮中をまわり、厄を払うものだった。当初は悪鬼を祓う善神だったが、9世紀頃には疫病の象徴である悪鬼に変わり、弓矢で追われることになった。豆まきは中国明時代の風習で、日本伝来は室町時代。年男が「鬼は外、福は内」と言いながら、炒った豆をまきます。豆は「魔を滅する」から「魔滅(まめ)」になったという説がある。

 

鬼の魂:三歌三句

老いた鬼 魂さらし 雪をこき 彷徨い歩く ふるさとの山

魂の 鬼になり落ち 苦しみて 悔いて嘆いて 山焼ける

鬼の性 皆に嫌われ この世では 住むところなく 旅急ぐなり

苦しみに わが身憐れみ 鬼を超え

浄土捨て 鬼に変わるや 我が心 

鬼となり この世見つめて 冬の月

 

 「魂(たましい)」は、「云(雲のようなもの)+鬼=怨霊」。死後に昇天する「たましい」が「魂」、しばらくの間地上に留まる『たましい』が『魄(たましい、ハク、骨を表す白+鬼)』。人は死んだら鬼になると考えられていたが、人は生きたまま鬼になり、人を苦しめ、殺す。そして、人は時には鬼より怖い存在。

 「魂」という文字の中に「鬼」という字が入っている理由は僧侶でなくても、知りたくなる。「魂(たましい)」は、「云(雲や霧のようなもの)+鬼」で、つまりは、死者の魂、怨霊である。死後に昇天する「たましい」が「魂」で、暫く地上に留まる「たましい」が「魄(たましい、ハク、骨を表す白+鬼)」。魂の「鬼」は、現在の「霊」とほぼ同じ意味である。人は生きたままでも鬼になり、人を苦しめ、殺す。だから、人は時には鬼より怖い存在である。