節分に(2)

 私の中の鬼の正体は何だろうか。大人になった私には仏教と鬼とが知識レベルで結びついている。だが、私が子供の頃の鬼はもっぱら怖い存在だった。では、鬼は悪者だったかと問われると、どうもはっきりしない。そのためか、今でも持国天増長天広目天毘沙門天の四天王の像の足元で踏みつけられたままの鬼の姿は悪者とは思えず、かわいそうな気さえする。仏法に逆らった古代インドの神「夜叉」は釈迦に調伏され、護法善神として神将(仏の戦士)になる。彼らの家来が邪鬼で、かつては夜叉神の命令で悪さをしていたが、邪鬼も四天王に調伏され、踏みつけられる。法隆寺金堂の四天王や東大寺戒壇堂の四天王に踏まれている邪鬼は表情豊かで、どこかユーモラスに思える。これは私が育った環境のためなのだろうが、今の子供なら鬼をどのように思うのか、これまた私には謎なのである。

 日本の「鬼(オニ)」に対して、中国の「鬼(キ)」は随分異なる。中国の鬼は悪霊や亡霊そのもの。当然ながら、中国の鬼は霊魂で、身体がないのだが、日本では早くから擬人化され、様々に画かれ、具体的な姿を与えられてきた。日本では、鬼はいったん味方になってくれたら、その強さゆえに、災厄を払い、幸福さえもたらす存在に変わったのだ。

 私を含め日本人は小さい頃から、鬼が登場する昔話に親しんできた。「桃太郎」に出てくる鬼は鬼ヶ島に住んでいて、乱暴な悪者のために退治されてしまう。「一寸法師」に出てくる鬼は身長3センチの一寸法師を飲み込み、腹の中で針を刺されて降参し、落とした「打ち出の小槌」で一寸法師は大きくなることができた。また、旅人を殺して食べてしまう鬼婆の「やまんば」や節分で「鬼は外」と追い払われる鬼もよく知られている。これらの鬼は人の心にひそむ怨みや憎しみのシンボルである。

 現在の鬼の一般像は、赤鬼や青鬼で、頭に角が生えていて、耳までさけた口から牙が生えている。鬼のイメージは日本古来のものでも中国のものでもなく、大乗仏教が元になっている。仏教では、六道の中の餓鬼道の衆生が鬼と言われ、地獄の守衛である。鬼は六道の中でも最も苦しい地獄で、罪を犯した囚人を管理する守衛。『往生要集』には鬼が地獄の守衛として描かれている。例えば、地獄に堕ちた囚人を金棒で打ち、刀で切り裂く。このように地獄で罪人を苦しめるのが仏教での鬼。

 地獄の鬼たちは一体何を表しているのか。鬼は欲望に満ちた心の喩えである。青鬼は限りない欲の心を表している。赤鬼は燃え上がる怒りの心を表している。黒鬼は腹黒い怨みやねたみの心を表している。地獄や鬼は私たちの欲望や怒りや愚痴の心が作り出したもので、いずれも心の産物であるというのは仏教独特の心理分析の結果であり、大乗の方便の一つとも言える。

 私の中の鬼は仏教的、中国的、民俗的な要素が絡み合い、それぞれの特徴を保持しながら、心の中で生き続けてきたようである。