アメジストセージの花(2)

 アメジストセージの萼(がく)と花との色合いは何とも絶妙です。そこで、次のような表現を考えてみて下さい。最初の二枚の画像の下に、「これはアメジストセージの花ではない」という文をつけたとします。画像は紫色の萼で、そこから「白い花」はまだ出ていません(アメジストセージの花(1)参照)。ですから、この文は二枚の画像について正しい文ということになります。

 ところで、この文はルネ・マグリットの「これはパイプではない」によく似た謂い回しです。でも、似た謂い回しであっても、実はまるで違った内容の謂い回しです。確かに、「これはアメジストセージではない」は「これはパイプではない」にとてもよく似ていますが、「これはアメジストセージの花ではない」はマグリットの絵の下に書かれた「これは煙管ではない」の方に似ています。実際、画像はアメジストセージの萼で、花ではありません(同じようにマグリットの画はパイプであって、煙管ではありません)。

 こうして、マグリットやそれに刺激されたフーコーの20世紀の禅問答のような議論が浮かび上がってきます。「これはアメジストセージではない」は「これはパイプではない」にそっくりなのですが、「これはアメジストセージの花ではない」は随分と違います。画像に「これはアメジストセージの花ではない」を添付したとすれば、それは経験的に正しく、その理由は「これはアメジストセージの萼である」からです。

***ルネ・マグリット《イメージの裏切り》(1948年)

 《イメージの裏切り》はルネ・マグリットの油彩作品。絵にパイプが描かれ、その下に「これはパイプではない」という文字が描かれている。彼によれば、この絵自体はパイプでなく、本物そっくりにパイプを描いたとしても、それは絵に過ぎない。だから、「これはパイプではない」は正しい文である。絵画は現実を正確に複製したものでも、描かれたパイプは本物のパイプではない。 言葉もまた絵画と同じく現実を指し示すものではない。パイプを描くように、「私は地獄にいる」と書くことは誰でもできる。「物」、「物のイメージ」、「物の名前」の間の結びつきは恣意的なもので、互いに切り離すことができる。ミシェル・フーコーは1973年に『これはパイプではない』という著書でこのことを論じている。フーコーが考察するのはresemblance(類似)とsimilitude(相似)の差異であり、この差異は「オリジナル」と「コピー」、「原典」と「翻訳」の関係などの問題へと展開する契機を孕んでおり、多くの解釈が提出されてきた。