「落書き」遊び

 子供向けの哲学の話で、落書きがよく話題になり、落書き禁止の壁に「落書き禁止」と書き込むことは落書きなのか、そうではないのか、と問われ、子供たちがそれに色々反応するといったことがよく登場します。

 「落書き禁止」と落書きすることを含め、それは自己言及的(self-reference)な文の一つで、矛盾した事態を引き起こすと解釈されてきました。ギリシャ時代の「クレタ島の嘘つき」から始まる自己言及文の仕組みは20世紀になってゲーデルによる不完全性定理の証明に使われることなどによって、多くの人の関心の的になりました。よく似た話は20世紀初頭から言語や論理に関する議論で様々に取り扱われ、例えばその一つがルネ・マグリットの描いた「イメージの裏切り」という油彩の絵(1928-29、ロサンゼルス郡美術館蔵)です。パイプの絵と「それはパイプではない」という文が一枚の絵に描きこまれています。「落書き禁止」と落書きすることに似たように見えます。でも、マグリットは、この絵は単にパイプのイメージを描いているだけで、絵自体はパイプではないということを言いたく、だから、「これはパイプではない」と書いたと説明するのです。本物と見分けがつかないほどリアルにパイプを描いても、それは絵に過ぎなく、それゆえ、「これはパイプではない」となる訳です。

 これは「落書き禁止」の状況説明とは違う説明です。落書き、クレタ島の嘘つき、そしてマグリットの絵も、どれにもパラドックスになる状況とそうでない状況があることに注意すべきなのです。なんの前提もなく、矛盾した事態を端的に表現している事態は常に偽になる文が表現する事態しかありません。例えば、「AはAでない」という文が表現する事態です。また、フランス語を知らない人には「これはパイプではない」という文はその意味が伝わらず、矛盾した事態かどうかさえ判断できません。つまり、フランス語を知らなければ、マグリットの絵は猫に小判なのです。

 より端的に、落書きもクレタ島の嘘つきも、言葉を知らない人にはそもそも何でもないものです。言葉を知っているとしても、前提や状況があってこそ自己言及文の持つ矛盾が理解されるのです。つまり、矛盾がわかる前に、言葉や状況をわかる必要があるという訳です。