ふるさとを穿る(5):余談

 異安心の論争はまだ続くのですが、余談として、異安心や異端は現在でもなくなることはなく、キリスト教や仏教では今でも教義に関する主要な問題になっていることを述べておきます。ですから、小児往生や三業惑乱は歴史的な問題であると同時に、今でも問題であり続けているのです。

 私たちが救われるのは神の一方的な計画であり、「私が信じる」という私の自由意志は全く関係していないのでしょうか。信者の中には自分の自由意志でキリスト教信仰を選んだ人がたくさんいる筈です。ところがキリストは、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と言われます。では、神が私の意志と行動をすべて支配しておられることと、私の自由意志、そして私の責任はどのような関係にあるのでしょうか。この問いとその状況は小児往生や三業惑乱の論争の状況にとてもよく似ています。例えば、「私たちは自分の力で救いを勝ち取ることはできず、救いはすべて神の主権と恵みによって私たちに与えられるものです」と言う主張は、「信心正因」や「悪人正機」とよく似た主張になっています。

 こうして、キリスト教浄土真宗とで似たような問題に直面し、それは長い歴史を持ち、今でも解決されたとは言えないことになります。それが信仰と自由意志との関係なのです。