全知全能と自由は両立しない

 神が全知全能であることと、私たち人間が自由であることは両立しない、つまり、全知全能の神は私たちの自由を認めない、あるいは自由な私たちは神の全知全能性を否定する、というのがA君の出した結論でした(昨日の「全知全能についてのA君の考察」参照)。

 1525年末にルターは『奴隷意志論』を著し、エラスムスの『自由意志論』に反対しました。人間の自由意志に基づく努力によって神の救済が得られるのは誤りで、神の恩寵と憐れみによって人間は救済されると考えました。自由意志の存在が認められ、その内容についての意見の違いが二人の論争になっています。でも、ここでの議論はそもそも自由意志を人間は持てるかどうかです。神の全知全能性を認めると、その結果として私たちの自由意志は否定されます。これは論理的に正しい結論で、自由意志と決定論の関係についての整合的な結果の一つなのです。

 決定論と自由の問題は宗教教義や信仰の文脈とは異なる文脈で議論されてきました。しかし、論理的な側面を見ると、決定論と神の全知全能性は共通の特徴をもち、その特徴が自由との両立性を許さないのです。

 すべてが決定されている、

 すべてが知られている、

という言い方には共通のものが含まれています。

 決定できないものがある、

 未知のものがある、

などは決定論的ではない表現です。私たちの認知能力や知識の不確定性が経験世界の特徴であり、その典型が確率的、統計的な情報です。知識以上に情報は不確定で、暫定的なものを含んでいると私たちは考えています。

 全知全能の神には世界は決定論的で、すべてのことは過去、現在、未来に渡って決まっているのです。旧約聖書のコヘレトの言葉、伝道の書の中の「日の下に新しきものなし」の意味は、全てのものはずっと以前から神の創造したもので、人間が何かを発見し、作り出したものは何もありません。新しいものは神のもとには何もないのです。その意味で、世界は退屈そのもので、新しい発見も発明もないのです。

 古典物理学決定論的世界は全知全能の神にぴったりの世界であり、不確定で確率的な量子力学的世界は非決定論的で、いわば量子の自由が存在する世界です。

 このように見てくると、個人の自由を認め、それを追求することを拒まない世界は神の力を一部制約することによって成立することがわかります。どの部分で神の能力を認め、どの部分で能力を封印するかはきちんと議論されるというより、教会勢力と世俗勢力の対立として政治の世界で戦争や紛争を通じて行われてきました。

 自由と決定の問題は論理的な問題としてきちんと議論される前に、エラスムスとルターの論争から始まり、市民と教会、市民と専制君主、市民と権力者といった政治的な対立として繰り返し登場し、それは現在も続いているのです。