頚城の山と京都大学学士山岳会

 「えちご妙高会」という名前は山が好きな人には越後に関わる山岳会の名称で、名峰妙高山に関わる人たちの集まりだと思う人が相当数いる筈です。残念ながら、えちご妙高会は妙高市出身の郷人会で、それも高齢者の集まりに過ぎません。それでも、妙高市にとっては国立公園の中の頸城の山々は市の自然の骨格を形作っていて、山に関わる組織や活動を無視することなど到底できません。

 学問行者が戸隠山を開山したのが848年。それから千年以上経って1891年にウェストンが浅間山槍ヶ岳、御岳、木曾駒ヶ岳、富士山に登頂します。1927年には西堀栄三郎(第1回南極越冬隊長)が「雪山賛歌」作詩し、大島亮吉が前穂高岳・北尾根Ⅳ峰で墜落死(享年29歳)します。「道のありがたみを知っているものは、道のないところを歩いたものだけだ」など、大島の紀行文はとてもロマンティックで、登山を誰でも親しめるものにしました。1959年に深田久弥が山の月刊誌『山と高原』(3月号)に「日本百名山」の連載を開始します(1959年~1964年)。これらは一般的な登山ブームに大いに貢献するのですが、博物学的な学術探検(登山、洞窟、極地、深海)は京都大学学士山岳会に負うところが多いのですが、それも秘境がほぼなくなりつつある今の地球では忘れ去られようとしています。

 1937年17 歳の春、梅棹忠夫笹ヶ峰ヒュッテを根拠地に頸城山群に挑みます。そのため、翌年3 年に進級できなくなります。それでも2学期から山岳部プレジデントをつとめ、1939年19歳で京都探検地理学会に入会し、2回目の第2 学年も落第。除籍となるのですが、友人たちの助命嘆願が功を奏して1 学期間だけ除籍保留となります。そんな文武両道(?)のエピソードをたくさん持つ京都大学学士山岳会(Academic Alpine Club of Kyoto)は笹ヶ峰に「京都大学笹ヶ峰ヒュッテ」を持っています。

 昭和天皇が1926年に即位され、その記念事業の一つとしてヒュッテ建設が計画されます。秩父宮と槇有恒らがマッターホルンに登頂したのが1926年で、ヨーロッパ流の山小屋が建設される機運が盛り上がっていました。笹ヶ峰ヒュッテは標高1300メートルの高原にあり、妙高山火打山黒姫山などの山々に囲まれています。1999年に木造3階建の現在の姿に改築され、山岳部員の登山訓練や、山岳スキー練習の基地として利用されています。詳しくは笹ヶ峰ヒュッテ(https://www.aack.info/ja/sasagamine/)とそのFacebookを参照。

*2019年3月には京都大学日本モンキーセンターのチームが雪の中のサルを発見。2020年1月より、日本モンキーセンター京都大学 霊長類学・ワイルドライフサイエンス・リーディング大学院が共同で、 笹ヶ峰におけるニホンザルの調査を開始。2023年の2月には第6回の調査が行われました。

**京大の学士山岳会の歴史は松沢哲郎の特徴的な文章があります。「マナスル初登頂60周年と雲南の山旅」、『ヒマラヤ学誌』、No.18、 2-13、 2017