「風が吹くと、桶屋が儲かる」筈がないのに、「風が吹く」ことから因果的に得られる結果をつなげていくと、「桶屋が儲かる」という最後の文が出てくる。途中に論理的な誤りは見つからないにもかかわらず、私たちは「風が吹くと、桶屋が儲かる」とは思わず、どこかおかしいと直感する。だが、どこの何がおかしいのか不明のまま。「A→B, B→C, D→...,→Z」のそれぞれの「ならば(→)」は因果的に解釈されるのだが、例えば、A→B, B→Cから、A→Cを導出するのは論理的に解釈された(真理関数としての)「ならば(→)」なのである。この際、AやBが成り立つ前提の違いは通常省略されてしまう。これが私たちがおかしいと思う直感の源である。
国会の質疑応答で「仮定の話には答えられない」という答弁をよく聞くが、仮定だとなぜ答えられないのか誰も答えてくれない。「地震が起こると、停電になる」についてどう思うかという質問に「仮定の話には答えられない」と答えたら、普通なら総スカン。
数学の証明問題の代表と言えばユークリッド幾何学の基本的な定理群。5つの公理を巧みに組み合わせて定理を証明するには「ならば」の職人的な使い方が要求される。仮定する言明が何を含意するかを見出すことが証明の面白いところで、仮定がもつ情報が定理の情報を内に含むかどうかの見極めが証明に成功するか否かの鍵を握っている。証明に登場する「ならば(→)」はすべて論理的(=真理関数的)な「ならば」。ここでは「A→B」のAが偽であることが可能で、その場合「A→B」はBの値に関わりなく、いつでも真である。誤った仮定の下ではどんな結論が出ても、全体は真なのである。
19世紀末からの論理学の進展は、論理の規則が演算の規則であり、計算できる形をもったものであることを明らかにした。理性とは正しい推論をつくり、理解できる能力であるが、結局その能力は計算可能性のことだとわかると、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということになり、理性はあっさりコンピューターの操作で解釈されてしまった。それが間違いでないことは20世紀後半のコンピューター科学の進展が実証している。一段下に置かれていた感性は未だに謎だらけというのは何とも皮肉な話。
さて、最初に戻って、「風が吹けば、桶屋が儲かる」の「ならば」は論理的な「ならば」として得られたものなのだが、私たちはそれを因果的な「ならば」とつい誤解して解釈してしまう。何かおかしいと感じるのは因果的に「ならば」を解釈しているからで、「風が吹くこと」と「桶屋が儲かること」の間に因果的な関係が見出せないためにおかしいと感じるのである。一見因果的に見えても、この長い「ならば」の系列は、最後に真理関数的に計算されることによって論理的な「ならば」に豹変する。
論理的な「ならば」と因果的な「ならば」の違いをダメ押ししておこう。「A→B and B→A」は「AはBの必要条件であり、かつ、AはBの十分条件である、つまり、AはBの必要十分条件で、AとBは同値」と言われる。論理的にはAとBは同じ内容を表現している。だが、「ならば」が因果的な場合、「Aが起こり、その後でBが起こる」のであり、「Bが起こり、その後にAが起こること」はあり得ない。