眼前の赤い紙を見て、「いま、その紙が赤い」と感じ(感覚所与、sense-data)、それに直接的に気づく。私が、私に現れる感覚質「赤」を直接的にデータとして受け取り、赤いと感じるのであるから、これ以上の正当化はない。それゆえ、感覚所与はそれ自身正当化を必要としない。だから、その性質を使って他の信念の正当化を与えることができる。だが、ウィルフリッド・セラーズ(Wilfrid Sellers)は「所与の神話(myth of the given)」論によってそれをあっさり否定してしまった。セラーズは、感覚所与(センスデータ)の信頼性とは次の二つを混同させることによって、でっち上げた幻に過ぎないと主張した。
(1)ある感覚によって印象を持つこと
(2)どう感じるかについて命題で表現できる知識を得ること
(1)は直接的に現前し、感覚質として与えられるもの。これはまだ知識や認識にはなっていない。その現前が何かを認識するためにはそれを命題として表現し理解することが必要。(2)は確かに知識、認識である。だが、直接的な現前ではなく言語的な命題である。それゆえ、(1)と(2)の間には言語と感覚という越えがたい断絶があることになる。
この議論は「感覚そのもの」と「感覚内容の表現」とは根本的に異なるものだという常識に基づいている。これは「所与の神話」だけでなく、実はあちこちに見られる。例えば、所与の神話は、機能主義に基づく言語的な知識が感覚質を説明できないということを含意する。これは(1)と(2)の断絶の一側面。また、心に関するハードプロブレムは通常の科学では解けないという主張は「所与の神話」を別の側面から述べたもの。
<ここで再考:絵画による相互乗り入れ的な表現>
描写、写生、表象、表現といった謂い回しの中に、感覚と描写、説明の「重ね合わせ」が見て取れる。画家は自分が見たもの、感じたものをキャンバスの上に直接置くのではなく、自らの知識・技術を駆使して意図的に(描きたいものを)描き出そうとする。感覚レベルの刺激に対して、学習による感受性をその刺激に対して働かせ、具体的な画像を生み出す。このようなその一連の「描く」作業において(1)と(2)が断絶していたのでは画家は仕事ができない。感覚的な内容を絵画として描くには(1)と(2)の連携が不可欠。「所与の神話」こそ実は机上の神話に過ぎなく、感覚的な所与は画家の経験や知識、技能によって絵画という文法を通じてキャンバスに表現される。
ところで、「重ね合わせ」が可能ということは、「付随(supervene, supervenience)」可能ということでもある。(2)は(1)に付随する、つまり、(1)を基礎にして、それに違反しない仕方で(1)の内容が表現され、言語化される。言語で表現するとは、現象に付随させ、現象に従わせるということである。勿論、私たちの言語表現は付随に止まらない。付随など単なる記述に過ぎなく、真に創造的なのは現象に付随しない、創発的なものだという自負が文学にはある。