物語は総合的で、何であれ使えるものはすべて使って私たちを誘惑し、虜にしようとする。人間のすべての感覚に訴え、詠い、語り、記し、言いたいことを否応なく押し付けてくる。意志も感情も利用し、あらゆる手練手管を駆使して私たちに迫ってくる。物語のもつ総合的な力に太刀打ちできるものなどどこにもない。言葉を操るという私たちの本性をフルに利用し、時には悪用さえ辞さないというのが物語の魂胆なのである。物語は私たちの経験する世界を模倣でき、物語が展開される世界に私たちを導き入れ、私たちの気持ちを操り、陶酔させることなど朝飯前である。物語は世界を模倣するだけでなく、現実にはない可想世界をつくり出すことができる。私たちは物語を通じて世界を経験できる。そして、物語を通じて世界について学び、生き方さえ習得してしまう。物語は世界についての知識を与えてくれるだけでなく、新しい世界、仮想の世界をつくり出すことができる。物語は私たちがいかに生きるべきかを実にわかりやすく教えてくれる。物語は私たちが世界を知り、そこで生きるための万能の教科書の役割を担ってきたのである。
物語から心躍る面白い部分のほとんどすべてを取り去った残滓が論証である。それにも関わらず、そこに人は合理性や無矛盾性を見出し、必要以上に論証を崇めてきた。神話や物語は原始的で幼稚な説明の仕方に過ぎなく、そこから抜け出ることによって論理的な説明形式として論証が生まれた、というのが一般的な理解として受け入れられてきた。
では、論証は物語から何を取り去った残滓なのか。何を取り去り、理屈だけ残したのか。理屈の他に残したものはあるのか。生き生きした生活世界の記憶は消され、生活世界の基本要素なるものが想定され、それらが残された。それらは世界についての前提、基礎的な命題のようなものと思われている。さらに、論証の仕組みを使うのは私たちであり、論証を構成するのに必要なものは私たちの側の能力として考えられることになった。言語表現を中心に世界を考える場合、世界は経験するだけではなく、経験することを表現したものも考えることであり、それが論証という形式をとったということになる。
物事が起こるままに、そしてそれを経験するままに、それを再現するかのように物語は展開する。それが私たちを惹きつけ、時には我を忘れる程夢中にさせる。論証は物事の展開通りには進まず、言語レベルで再構成されて論理的に並び替えられる。経験するままに、経験通りには展開しないのが論証である。論証によって私たちは自ら物事を考え、再構成すると意識する。それゆえ、私たちは論証に私たち自身の介在を感じ、精神的な緊張を覚えるのである。物語を愉しめるようには論証を愉しめないことになる。
物語の中に論証はあるが、論証の中に物語はない。物語は因果的な変化を直接、巧みに表現できるが、論証は因果的な変化を論理的に再編する。既に何度も述べてきたことだが、出来事の因果的な連関と論理的な連関は微妙に異なっている。いずれも接続詞「ならば」で表現されるが、論理的な「ならば」と因果的な「ならば」は異なる。この僅かな違いが一方の神話、物語、歴史と、他方の推論、論証、証明という大きな違いをもたらすのである。
ターレスとパルメニデス
<ターレスの幾何学:論証による説明>
現在はトルコ領内のミレトスで生まれたターレス(624-546 BC)は、気候や天体の変化は神ではなくて哲学者や科学者が説明すべきだと考えた。ターレスは物質がすべて水からできていると誤解したが、どんなものも同じ一つのものからできているという考え自体は誤っていなかった。それが証拠に、すべては素粒子からできていると今の私たちは信じている。ターレスは地球が丸く、月は太陽の光を反射して輝くと説き、日食を最初に予言したとヘロドトスは述べている。ターレスは数学、特に幾何学を生み出し、実際に幾つもの定理を証明している。
アリストテレスはターレスの金儲けの話を伝えている。貧乏で、哲学は役に立たないと批判されたターレスは、気象学の知識を使って翌年の夏のオリーブの収穫は豊作だと予測し、オリーブの圧搾機を事前に借り上げ、大儲けできた。知識を上手く利用して金儲けをするときの因果的な文脈と、ターレスが幾何学の定理を証明するときの因果的でない文脈を見比べると、因果的な文脈では「利用される知識」が主人公になり、非因果的な文脈では主役が「探求される知識」であることが見事に浮かび上がってくる。勿論、ターレスの哲学者としての関心は知識の探求にあった。
ターレスの合理的精神は、エジプトから持ち帰った知識を鵜呑みにせず、徹底的に吟味して論理的に結論を導くものだった。これがギリシャ数学を生みだす源泉になっている。エジプトでは「円の直径はその円を二等分する」、「二等辺三角形の底角は等しい」、「対頂角は互いに等しい」ことなどが経験的に知られていたが、それらを最初に証明したのがターレスだと言われている。既に知られている事実を単に受け入れるのではなく,より基本的な一般原理にまで還元し,そこから証明するという態度は神話による説明と際立って違っており、この点においてギリシャの論証数学の第一歩を踏み出したのがターレスだった。
ターレスの定理と呼ばれる幾何学の定理を紹介しながら、論証がどのように展開されるかの一例を実際にこの目で見てみよう。
まず、上の三つの命題を記しておこう。
円は直径によって二つの同じ部分に分割される。
二等辺三角形の底角は等しい。
二つの直線が交わったときの対頂角は等しい。
これらの命題が証明する必要のない自明の命題なのか、それとも証明する必要がある命題なのかは微妙な問題で、その答えは一つに決まってはいない。だが、次のターレスの定理を見れば、それが何を使って証明できるかは誰にもわかるのではないか。
ターレスの定理:ACが円の直径で、BがAやCとは異なる円周上の点なら、角ABCは直角である。
証明: ターレスの証明を想い出してみよう。三角形の頂点から円の中心に線を引くことによって、二つの三角形ができる。いずれも円の半径を斜辺とすることから、二等辺三角形であり、それゆえ、それぞれの底角は等しい(前の命題を使っている)。それぞれの等しい底角をa、bとすると、a + a + b+ b = 180なので、 a + b = 90となる(算術の定理を使っている)。
このような証明は経験的、直観的にわかることと論証によってわかることの違いを示すだけでなく、論証が因果的な変化を使ったものではなく、論理的な規則を使ったものであることを示している。物語の因果的展開とは異なる、証明の論理的展開が幾何学の本質であり、それをターレスが最初に具体化したのである。論証は前提と結論の間の論理的な展開であり、それゆえ、何を前提にするかが大切な事柄になってくる。誰が見ても疑うことができない、自明の前提から論証がスタートし、そこから結論が得られるなら、論証は大変優れた知識の獲得方法ということになる。だが、何が前提として相応しいかは最初から決まっている訳ではない。事実として与えられる因果的な原因とは違って、論理的な前提は論証する私たちが選ばれなければならないのである。この大問題は今後じっくり考えることにしよう。