一視同仁

 妙高市の小出雲にある加茂(賀茂)神社の神社名石碑は「賀茂神社」、もう一方には「一視同仁」の碑があります(画像は吉田容子氏撮影)。この画像の右側の文字は一体何なのか、とても気になり、既にClub Myokoで説明しました。

 「一視同仁(いっしどうじん)」と刻まれていて、「視を一にし仁を同じくす」と読みます。「一視」は平等に見ること、「同仁」はすべてに仁愛を施すこと。「依怙贔屓(えこひいき)」の反意語で、ほぼ「公平無私」という意味です。すべての人を分け隔てなく、平等に愛すること、つまり、loving every human being with impartialityということ。

 「一視同仁」は中唐の文人政治家韓愈(かんゆ、768-824)の『原人(人の本質を原(たず)ねる)』の文章中に出てきます。韓愈は、唐宋八大家の第一に数えられる文筆家で、古文復興運動を勧めました。簡単に言えば、儒教の復興を目指したのです。韓愈は、六朝以来の文章の主流であった四六駢儷文が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、古文復興運動を提唱し、唐宋八大家の第一に数えられています。その運動は、彼の思想の基盤である儒教の復興と表裏をなすもので、その観点から著された文章として、「原人」、「原道」、「原性」などが残されています。

 儒家道徳の根源・本質を尋ねるのが韓愈の「原人」論文。上述の繰り返しになりますが、天は太陽や月、星、星座の類するものの主(あるじ)をなすもの、地は草木、山川の類するものの主をなすもの、人は東夷・西戎・南蛮・北狄、鳥毛物の類するものの主となすものです。主でありながら、その属類を害するということは、主たるものがすべき道を正しく行わないということです。それゆえに、聖人は東夷・西戎・南蛮・北狄、鳥毛物の類するものであろうと、それらを同一に見て、同じ博愛の情をもって「一視同仁」として治め、身近のものに対して「仁」として手厚く施すとともに、遠くのものにも残らず及ぼすようにするのです。つまり、公平で無私の態度で接することを説いているのです。

 「一視」は「同一視する」こと、つまり差別せず、誰をも同じように見ることです。同仁は怨親平等仏教用語で、敵、味方を平等に扱うこと)、博愛主義(人はみな平等に愛し合うべき)と同じような意味です。

 「原人」、つまり人の本性を探ることによって「一視同仁」の主張となるのですが、人の本性は同じどころか多様性に満ちています。人が違えば、本性も異なるとなると、一視同仁は可能と言えるのでしょうか。人の本性は様々でも、それらを差別せずに公平無私に扱うことは実際に可能なのでしょうか。人の本性(Human Nature)は依怙贔屓の塊、好き嫌いの塊であり、個人差に溢れています。しかし、その違いを乗り越え、「一視同仁」の扱いをすることは民主主義のスローガンにさえなってきました。人には差異があり、それが個人差として、個性として、社会的に認められてきたのに対し、人の権利として自由で平等でなければならないと叫ばれたのです。人の本性は善ではなく、悪が勝るために、倫理や法律によって善を実現することを目指すのが人の社会であり、リーダーの役割だとされたのです。ここで改めて私が述べる必要もないことですが、「異なる個性、形質をもつ人たちを一視同仁の立場から捉える」ことは実はとても厄介で、困難なことです。でも、人はその途方もない願いを目標にして、今でもその夢を飽くことなく追い続けているのです。

スイフヨウの花

 スイフヨウはフヨウの園芸品種。花の色が朝は白、午後は桃色、夕方は紅色に変化するので、「酔芙蓉」と名がついた(画像は八重のスイフヨウ)。時々気にしてフヨウの花を見ていたのだが、なかなかスイフヨウを見ることができなかった。だが、10月に入り偶然に遭遇、午後まで白い花が残っている。萎んだピンクが見えるが、白とのコントラストが美しい。

 遠く平安の頃から観賞され、人々に愛されてきたフヨウの花。古くから栽培されているにもかかわらず、ムクゲと違って変異が少ない。確かに、昨今様々なムクゲが歩道に植えられている。フヨウの数少ない園芸品種の一つがスイフヨウ

 「芙蓉」は中国ではもともと「蓮の花」のこと。水の中に咲くものを水芙蓉、木に咲くものを木芙蓉と呼んでいた。日本では、蓮を芙蓉という習慣がないので、芙蓉といえば木芙蓉のこと。朝に咲き、夕方には萎んでしまう一日花で、早朝に開花したときには本来の淡紅色、夕方になるにしたがって、その色は次第に濃くなり、そして萎んでいく。一方、スイフヨウは、朝は純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色になる。酒を飲んで顔色が赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたようである。

f:id:huukyou:20211012053520j:plain

f:id:huukyou:20211012053533j:plain

f:id:huukyou:20211012053603j:plain

 

トレニアの花

 トレニアは、春から晩秋まで暑い夏にも負けないで、花を咲かせてくれます。たいへん育てやすい植物で、2~3cm程度のスミレに似た花を株いっぱいに咲かせることから、別名「夏スミレ」、「ハナウリクサ」とも呼ばれています。

 トレニアインドシナ半島原産の一年生植物で、湾岸地域でもよく栽培されています。花期は6-9月頃で、夏から秋に花茎を伸ばしトレニア属特有の筒状の花を次々につけます。トレニアの花色は紫色、赤色、白色などがあります。トレニアの花はトレニア属特有の筒状の花で、左右相称の筒状花で、花弁は5裂(上唇2裂、下唇3裂)しています。

f:id:huukyou:20211011054638j:plain

f:id:huukyou:20211011054656j:plain

f:id:huukyou:20211011054712j:plain



秋の黄色:メマツヨイグサとセイタカアワダチソウ

 メマツヨイグサセイタカアワダチソウも秋の月に合いそうな黄色い花をつけるが、いずれも外来の侵入生物である。自然の風景は時代、場所によって変わる。では、自然の中の何が変わるのか。短い時間の経過で変わるのが生き物である。山や海に比べると、人や動植物は世代交代を繰り返しながら、意外に素早く変わっていく。そのためか、意識的に保持されないと変化し、時には消えてしまう。

 太宰治の『富嶽百景』にあらわれる月見草はマツヨイグサであったとされる。ツキミソウは夜に咲く白い花で、メキシコ原産。江戸時代に鑑賞用として渡来した。花期は6-9月ごろで、花は夕方の咲き始めは白色だが、翌朝のしぼむ頃には薄いピンク色となる。だが、太宰の月見草はこのツキミソウではなく、今ではマツヨイグサの同属種であるオオマツヨイグサマツヨイグサ、メマツヨイグサなどのこと。野山の道端、草地、荒れ地などに生えるマツヨイグサ属は日本に自生種が無く、すべて外来種である。湾岸地域では先に渡来していたマツヨイグサ、オオマツヨイグサを駆逐しているのがメマツヨイグサ(画像)。

 一方、セイタカアワダチソウ(背高泡立草)はキク科アキノキリンソウ属の多年草。北アメリカ原産で、日本に観賞植物として導入された帰化植物外来種)。ススキなどの在来種と競合する。河原や空き地などに群生し、高さは1 - 2.5m、11月頃まで花をつける。アキノキリンソウ属は世界で約100種が知られていて、日本で急に増えたのは戦後である。アメリカ軍の輸入物資に付いていた種子が広がり、昭和40年代以降には関東以西から九州まで大繁殖するようになった。

 昭和40年代にアレロパシー効果でススキ等その土地に繁殖していた植物を駆逐したのがセイタカアワダチソウ。しかし、平成に入る頃には、その領域に生息していたモグラやネズミが駆除され、土壌に肥料成分が蓄えられなくなり、また蓄積されていた肥料成分を大方使ってしまったこと、自らのアレロパシー効果により種子の発芽率が抑えられる等の理由により、繁殖がめっきり減った。セイタカアワダチソウの勢いが衰えた土地にはススキなどの植物が再び勢力を取り戻しつつある。一方、北アメリカでは逆にススキが侵略的外来種として猛威を振るっていて、セイタカアワダチソウの生息地を脅かしている。

f:id:huukyou:20211010060943j:plain

f:id:huukyou:20211010061001j:plain

f:id:huukyou:20211010061017j:plain

f:id:huukyou:20211010061038j:plain

 

ユークリッドの公理系に加えられた二つの公理の意義

(これまでのコメントをまとめると…)

 ユークリッド幾何学には多くの暗黙の前提が使われています。それらが19世紀に指摘され、改良する試みがヒルベルトによってなされました(Hilbert, D.(1899),Grundlagen der Geometrie(『幾何学の基礎』寺坂英孝・大西正男訳・解説、共立出版、1970))。ヒルベルトの公理系には基本的な公理の他に、アルキメデスの公理とデデキントの公理の二つが採用されています。

 線が完備である、つまり線にはギャップがない(つまり、連続している)というのがデデキントの公理ですが、これは実数の連続性(continuity of real numbers)とも呼ばれ、実数の集合がもつ性質です。また、実数の連続性は完備性(completeness of the real numbers)とも呼ばれます。デデキントの公理、あるいは実数の連続性(完備性)の公理は次のように表現できます。

 実数を、次のように、空でない集合ABに分割する。すべての実数はABのどちらかに属し、ABに共通部分はないとする。さらに、Aの元は必ずBのどの元より小さいとする。すると、

 (1) Aに最大値があってBに最小値はない。

 (2) Bに最小値があってAに最大値はない。

のどちらかのみが成り立つ。

 アルキメデスの公理は「どんな長さも別の長さに比べ、無限に長いことはあり得ない」というもので、これは「任意の二つの線分ABCDについて、ABn倍がCDより長くなるようなnが存在する」と同値です。

 2つの量abがあるとき、bを何倍かすると、いつかはaをこえるというのがアルキメデスの公理。順序概念のある加法群で、ab>0について、anbとなるnがあるとき、アルキメデス的と言われます。これは、nを十分大きくすれば、どんなaよりもnb が大きくなることを意味します。さらに分割が保証されていれば、これはa/nb、つまりan等分すればどんな正の数bよりもa/nが小さくなることを意味します。

 デデキントの公理とアルキメデスの公理を見ると、いずれも実数の持つ性質についてのものであることに気づきます。直線という幾何学的対象について実数を使って特徴づけようとすると、実数の持つ二つの特徴、完備性と順序性をそれぞれ公理化する必要が出てくるのです。この公理化によって、点と線は「順序よく、隙間なく並んだ点が線となり、それは実数として表現できる」ことになるのです。こうして、ヒルベルトによるユークリッド幾何学の公理化は直線を実数として表現することだったのですが、その実数の研究は解析学に結実し、自然の数学化を先導することになったのです。

 「点そのもの」という表現は物自体に似て、文脈や状況に対して反応しないものと考えられてきましたが、順序があり、連続して並ぶという文脈の中での点が実数のモデルになるというのが基本的な理解になります。「点そのもの、線そのもの」は不毛で、点や線についての公理は状況や文脈の設定のための命題だと考えることができます。

 数学に関する哲学の一つがプラトン主義で、点や線といった代表的な数学的対象はイデアであり、イデアは不変で、普遍な本質とみなされてきました。それは後世のフッサール的な心的対象とは違うものでした。それに対して、ヒルベルト幾何学の再公理化を通じて「形式主義」を主張しました。それを少々短絡的に表現すれば、公理化を通じてイデア言語化し、それによってモデル化、さらには、今風には「見える化」を目指したということができます。イデアの公理化とは「イデアについて言明によって具体的に表現すること」であり、プラトン主義を言明化し、それが形式主義に結実したと考えることができます。

シセントキワガキの実

 秋に入り、柿の実が色づき、そろそろ紅葉も近い。そんな中で、「四川常磐柿」と書けば、中国四川省原産の常緑の柿と推測ができるだろう。シセントキワガキはカキノキ科カキノキ属で、庭木や盆栽として使われるロウヤガキ(ロウアガキ(老鴉柿)というが、発音しにくいためかロウヤガキと呼ばれ、数十年前にやはり中国から帰来した渋柿である)に似ているが、ロウヤガキは落葉性である。

 葉は肉質で長さ5~9センチほどで、普通の柿の葉よりずっと小さく、ロウヤガキよりも細長い。花期は初夏で、花は小さいが、木自体が小ぶりであるため普通のカキの木よりは花が目立つ。花の後にできる実は直径2~3センチで文字どおり豆サイズだが、甘味があって食用できる。実は一般的なカキとは異なって枝に直接できず、柄にぶら下がってできるのが特徴である。実には羽根のようなヘタがついている。

 そのシセントキワガキの実が赤く色づき出している。一個の実は小さいがその数は多く、赤く色づくと、見事な姿を見せてくれる。

f:id:huukyou:20211009055556j:plain

f:id:huukyou:20211009055610j:plain

f:id:huukyou:20211009055624j:plain

f:id:huukyou:20211009055639j:plain

 

好奇心と欲望

 ノーベル賞受賞が決まった真鍋淑郎氏が好奇心こそ科学研究の核心にあると述べておられたのが印象的でしたが、好奇心も食欲や性欲に似て欲望であることに違いはありません。奇妙なことに好奇心を欲望とは思わない人が多いようです。食欲も性欲も正真正銘の欲望ですが、それと似て何かを知りたいという好奇心もやはり欲望です。性的な事柄を知りたいという思春期の好奇心は性的欲望です。

 とはいえ、「好奇心」が使われる文脈は「何かを知りたい」と思い、苦労して「知る」ことを成功させ、その結果が「知識」として結実する、という一連の流れになっていて、好奇心は欲望とは関係がないように見えます。でも、知的な欲求が好奇心によってスタートし、その結果が知識獲得となる訳ですから、欲望、欲求が行為の出発点にある点で何ら違いはないのです。

 つまり、欲求は「何かを欲する」ことから始まり、その何かを「実現する、自分のものにする」ことに成功し、成果が得られることになっています。ですから、好奇心と欲求の間にある差異は一般的と特殊的という区別に過ぎないのです。換言すれば、科学的な好奇心と経済的な欲望の構造は基本的に同じなのです。

 ここには人の本性が見事に表れています。ニュートンによる科学革命以後の世界には科学的な好奇心が不可欠でした。そして、それが必要なことは人の欲望の本質を見事に表しています。というのも、好奇心はしばしば悪事を働くのです。好奇心が生み出す悪と善は込み入っていて、結局好奇心は悪だというのが宗教的な諦念にもなってきました。どんな欲望も断ち切ることが宗教の一般的な対応であり、好奇心もその例外ではありませんでした。好奇心を抑えることによって欲望を押さえることが宗教的な一般的対応となってきました。それゆえ、好奇心を含めて、どのような欲望も禁欲することが規範になってきたのです。

 好奇心を捨て去り、諦念の世界で生きるのも一つの対処の仕方であり、それもまた人の本性の一つです。でも、科学は好奇心を捨て去ったのでは成り立ちません。科学は好奇心に執着します。そしてその点が宗教と全く異なる点です。しかし、科学的な好奇心は盲目です。好奇心が成就、実現する結果を知りません。どのように好奇心が働くと望ましい結果が実現するのかは全く予測ができず、それゆえ、好奇心は知的に盲目なのです。そのため、「好奇心の結末は何か」についてさらなる好奇心に火がつくのです。