コエビソウの花

 5月の下旬にコエビソウ(小海老草)について述べました。そのコエビソウが満開と言いたくなる程に咲き誇っています。コエビソウはメキシコ原産のキツネノマゴ科の常緑低木。花のつく穂が苞(ほう)に覆われていて、その形が小海老の尻尾に似ていることが名前の由来です。

 赤茶色で鱗状に重なっているのが花のように見えますが、これは苞で、花は細長い白色の唇状花です。開花期は5月~10月。微妙に折れ曲がった花(苞)がまるで茹でたエビのようで、重なったようにみえる苞の先端から白い花を咲かせます。花は穂状に集まって咲き、咲き終わったあとも苞が残って赤く色づきます。

 苞も花も一体となって動物たちに花だと見せるというのがコエビソウの戦略ですから、それに便乗して、満開のコエビソウの花を楽しみましょう。

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正確な観察と近視眼

 私のような老人は老眼が宿命で、小さなもの、細かいものを見るのが苦手である。年齢と共に世界が違った風に見えるのが生き物のもつ知覚世界の特徴でもあるのだが、その一部を巧みに利用したのが人間であり、その成果が経験科学として実現されてきた。正確に見つめることは観察だけでなく、実証的なデータ収集までも含め、自然現象を生み出す仕組みの考案までもカバーするようになり、自然を知る、理解する、さらには操ることまで可能になった。

 だが、細部を見ることは積極的な役割を持つだけでなく、消極的で劣った見方であることも昔から主張されてきた。「近視眼」はそのような語彙の一つで、細部にこだわり、遠く広く鳥瞰することができないことを意味している。つまり、正確な観察眼は近視眼的な行為でもあることなのである。

 さて、老人にとって細部の正確な観察と近視眼的な判断はどのような関係になっているのだろうか。観察と判断は異なる認知行為であり、それゆえ、正確な観察と近視眼的でない判断は両立し、共に実現することが可能であることを忘れてはならない。とはいえ、老人にはどちらも実現できない場合が次第に増え、ついにはほぼすべての対象について正確な観察と俯瞰的な判断ができなくなってしまう。それが「老い」ということなだと達観しても、それさえが老人ゆえの観察と判断の結果なのだと疑ってしまうのである。

 画像のようなブレた像を写真家が嫌う一方で、老人の眼にはブレているとしか見えない知覚像の方が本物だと信じるのは決して老人だけに限られないはずだと思いながら、老人の健全な知覚像は正確な観察とも近視眼的な判断とも違った独自のものと主張したいのは私だけではないはずである。

とはいえ、それは老眼の健全性を主張する我田引水に過ぎないと一笑に付されること間違いない。確かに、「健全な老眼」とは形容矛盾で、自己撞着した表現なのであり、健全な老眼は市民権が与えられていないようである。

*画像のキアゲハやハチとヒメカメノコテントウとを見比べた場合、正確な画像はいずれだろうか。

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フヨウ属の花たち

 フヨウ属のムクゲは見る場所や時間によって印象が大きく変わる。とても日本的で、茶席に合うかと思えば、韓国の国花でもある。ところが、同じフヨウ属のハイビスカスとなれば異国の夏の象徴。それぞれに日本的、東洋的、そして世界的と形容して何らおかしくなく、とても懐の深いのがフヨウ属の仲間たちである。かつて、ヨーロッパで植物園がつくられ、植物のグローバリズムがスタートした。人が栽培することによって植物は変えられ、世界中に広まった。ムクゲも日本的であると同時に世界的になった一つで、政治、思想、文化も、そして何より人種がそうなれば、何と世界は平和を享受できるのにと思うと、花の園芸種のようにグローバル化することをもっと学んだ方がいい筈である。

 和名の「むくげ」は木槿、槿。別名は「ハチス」。白の一重花に中心が赤い底紅種は「宗丹木槿(そうたんむくげ)」、すべて白い種は「遠州木槿(エンシュウムクゲ)」。早朝の3時頃に開花した花は夕方にはしぼんでしまう。最近は園芸種が多く、白のムクゲだけでも玉兎、ホワイトシフォンなど様々。

 ムクゲはめしべの先端が伸び、フヨウは先端が曲がる。タチアオイは花の中心部が淡い緑色。花の時期は、タチアオイが一番早く5月下旬~7月上旬。ムクゲがその約1ヵ月遅れ、フヨウはさらにその後になるが、そのフヨウも咲き出している。フヨウは夏に直径10-15cm程度のピンクや白の花をつける。花は他のフヨウ属と同様な形で、花弁は5枚で回旋し椀状に広がる。フヨウ属は湾岸地域に多く植えられているが、ムクゲハマボウスイフヨウアメリカフヨウ、そしてハイビスカスと色んな花が咲いている。最近よく見るのがタイタンビカス。日本で作出された園芸品種で、アメリカフヨウとモミジアオイの交配選抜種。6月下旬~10月初頭に15㎝ほどの花を多数つける。

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ハッサクの実

 急に梅雨が明けた気がするが、昨日ははっきりと夏を感じることができた。コロナ禍のオリ・パラに暑さも加担し、誰にもしんどい時期である。

 八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。新暦では8月25日頃から9月23日頃までで、2021年は9月7日である。江戸時代には正月に次ぐ特別な祝日だった。稲穂が実り始める時期で、各地で「豊作祈願」の行事が行われた。

 果物のハッサクは日本原産のみかんで、「八朔」と書く。江戸時代末期、広島の寺で原木が発見され、住職が「八朔の頃に食べられるだろう」と言ったことから「ハッサク」の名がついた。

 実際には旧暦8月1日頃には、まだ実が小さくて食べるには早すぎ、収穫時期は12〜3月頃で、収穫後に1〜2カ月貯蔵され、酸味の落ちる2〜3月が食べ頃となる。とはいえ、近くの公園にあるハッサクは、八朔前でも画像のように青々しい実をつけ、大きくなり始めている。

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ブドウとザクロの実

 ダイコン、ホウレンソウ、ニンジン、ナタネなどの野菜は地中海や中央アジアが原産地、リンゴ、ブドウ、スイカ、イチジク、ザクロ、ウリなどの果物もアフリカや地中海、中央アジアが原産地、いずれもシルクロードを通って日本へ伝播した。

 キリスト教美術でよく描かれるのがザクロとブドウ。リンゴのような丸いものは禁断の果実の暗示で人の罪、ザクロとブドウはキリストによる救いを象徴している。静物画でもよく取り上げられ、シメオン・シャルダン(1699~1779)の「ぶどうとざくろ」(1739、ルーブル美術館)もその一例。だが、絵画に描かれるのは圧倒的にブドウであり、ザクロよりブドウの方が私たちの生活に密着してきたことがわかる。

 ブドウ(葡萄)と並んで私の記憶に残るのがザクロ(柘榴)。旧約聖書や古代の医学書などにも登場しているザクロは、5000年以上前から栽培されていた。昔から健康や美容によいとされており、好んで食べられていた。原産地であるイランからシルクロードを通って中国やヨーロッパへ伝わり、日本へは平安時代に渡来したようである。ザクロの実は不規則に裂け、種が多いことから、アジアでは昔から子孫繁栄、豊穣のシンボルだった。

 子供の頃、近くの家にザクロの樹があり、その実を食べたことが今でもザクロの樹を見る度に条件反射のように脳裏をよぎる。食べ頃は10月。特別にうまいという訳ではないのだが、口の中で弾けるような食感がたまらない。そして、爽やかな甘味と酸味が残る。

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有明運河の鳥たち

 オリ・パラが近づき、有明運河周辺は騒がしくなってきた。大阪、兵庫、福岡などの車両が目立ち、府警、県警の警官が周辺の警護とパトロールを始めた。そして、多くの関係者が忙しく働き出している。有明運河には東京湾旧防波堤があり、運河の中のグリーンベルトのような役割を演じていて、緑の林になっている(画像)。運河の豊洲側には市場が、有明側には有明アリーナ、有明体操競技場、有明アーバンスポーツパークができ、いつの間にかまとまった緑地は旧防波堤だけになってしまった。

 そんな人の世の喧騒から離れて、海辺の鳥たちが減ることはなく、マイペースで暮らしており、意外に豊かな東京湾の姿を垣間見せてくれている。チョウサギ、アオサギコサギなどが共に運河の小魚を漁っている。運河の水辺には遊歩道ができ、いずれは人工の砂浜もできるとのことである。

*画像はダイサギアオサギ、さらにそれらにコサギを含めた一群である。

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トチノキとコブシの実

 恥ずかしながら子供の頃の私はトチノキもコブシもほぼ知らなかった。「ほぼ」というのはよく見ていたはずなのだが、見ていたものが何かという認識がなく、そのため記憶にもないのである。トチノキの実から「栃の実」ができることを知っていても、それを見た記憶がなかった。これはコブシについてもほぼ同様で、歌謡曲の歌詞で「コブシ」を憶えたことが記憶にある。トチノキと違って、コブシの場合はもっぱら花だけに関心があった。

 トチノキもコブシも春に花が咲き、今はその実が実り始めている。栃の実が通常の木の実の体をなしているのに対し、コブシの実は自由な形態で、大抵はグロテスクな塊となっている。マロニエセイヨウトチノキ)の根に吐き気を憶えたのが主人公のロカンタンだが、瘤が重なるコブシの実を見たら、より自然に実存を感じることができたのではないかなどと妄想してしまう(画像のコブシの実は例外的に形が整っている)。

 そんな妄想とは別に、大木のトチノキは心地よい木陰を提供してくれ、コブシの緑濃い葉は眼を休ませてくれる。

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