「念仏は無義である」(『歎異抄』第十条):休日の高校生へ

  『歎異抄』の第十条は次の二つの文からなっています(カッコ内は訳文)。

念仏は無義をもって義とす。不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰せ候いき。

(念仏は一切の自力のはからいを離れている。それは、言うことも、説くことも、想像することもできないのだから、と言われた。)

*特に、最初の文は「「南無阿弥陀仏」の念仏は自力のはからいや、自らの思慮分別を交えないことが真の意義なのです。」と解釈できます。

 さて、ここで私たちが問題にしたいのは最初の文「念仏は無義をもって義とす」。人は言葉を使うだけでなく、言葉を操り、それで遊ぶことを憶え、言葉で世界を表現できることを知るのですが、つい言葉遊びが過ぎて、危険な火遊びになることを忘れてしまいがちです。人にとって、言葉は薬と毒の二役を演じてきました。言葉に騙され、言葉に対して距離を置く節制は自然科学には違った意味できちんとあるのですが、人文科学や社会科学、宗教や倫理の言葉の使い方はとても大胆で、放縦です。そこでは言葉による表現ができると、分析や解釈ができたと思い込むようなところがあって、レトリックしかないことになりかねません。

 これを解決する常識的な方法は語彙の還元主義です。それを第十条の言明にも適用してみましょう。それは、「義」が登場したら、義を使わない別の表現に直し、「義」をそれに還元することです。それによって、「義」という語彙にまつわる訓詁学、文献学、教養が使えなくなり、注釈を通じたレトリックが通用しなくなります。それによって、余計な装飾が取り去られ、肝心な話が直接できるようになります。

 さて、第十条の従来の注釈には次のようなものがあります。ここでの「義」とは、意義とか意味ということですから、直訳すれば「念仏は意味づけを超えたものということが本当の意味である」ということになります。では、意味づけを超えているとはどのようなことなのでしょうか。親鸞は「義」を「はからい」と訓読しています。「はからい」とは、思い計ることですから、自分の人生の意味を考え、価値を計ることが「はからい」です。このような「はからい」は、一体どこからやってくるのでしょうか。生まれたばかりの赤子や幼児が「人生の意味を問う」などということはありません。大人になり、言葉による知識を十分に持つようになると、意味や価値が問題になり出すのです。ですから、「はからい」は、いわゆる大人だけの問題ということになるのですが、だからといって知識を捨てればよいとか、赤子にもどればよい、ということでは問題は解決しません。なぜなら、そんなことは本来できないことだからです。

 最初の「無義」というのは、人間があれこれ計らわないということ。ですから、これは人間のはからいであり、それを行うのは自我であって、後の「義とする」というのは、仏である阿弥陀如来のはからいなのだ、というような理解が伝統的な理解として存在してきました。でも、義を人のはからいと仏のはからいに一文の中で読み分けるという芸当は常人にはできない、正に神技です。

 注釈はさらに続きます。真宗は「弥陀のはからい」の物語に出遇うことによって、大きな自由と喜びに感謝(念仏)していこうとする、極めて特徴的な仏教です。弥陀のはからいに出遇う喜びによって、おのずと自分のはからいがなくなるのです。人のはからいが自然を妨げます。人のはからいによってはできないのであれば、仏に任せるしかありません。煩悩具足の自分を救うために阿弥陀仏(=救済原理)が存在します。その仏から賜った信心によって、自我に囚われた状態から救済されることになるのです。

 さて、このような注釈が何を言っているかわからないと素直に表明すれば、どのような別の把握の仕方があるのでしょうか。たった一文の理解ですから、思想や哲学を持ち出すような仰々しいことは不自然、不健全です。

 かつてタルスキ(Tarski)は次のように提案「真であると述べられる文そのものを文が真であるための条件を記述するために使おう」をしました。例えば、

「雪が白い」が真である ⇔ 雪が白い

というものです。この提案を借用し、「念仏には無義をもって義とす」に登場する「義である」が「真である」、「不義である」は「偽である」、「無義である」は「真でも偽でもない」と定義してみれば、「念仏には無義をもって義とす」は、「「念仏は真でも偽でもない」は真である」となり、上記のタルスキの真理述語によって、「念仏は真でも偽でもない」と同値になる。つまり、タイトルの「念仏は無義である」が導出でき、

念仏には無義をもって義とす ⇔ 念仏は無義なり

となります。

 ところで、タルスキの提案は「真であると述べられる文そのものを文が真であるための条件を記述するために使うこと」でした。ですから、「雪が白い」が真であるのは、雪が白いときかつそのときのみである(つまり、「雪は白い」は真である⇔雪は白い)。このような文をある言語の文すべてについて考えれば,それらはその言語における「真である」という述語の振る舞いを十分に記述していると言えます。

 こうして、「義述語は真理述語と同じである」というのが第十条についての私の無義、義の解釈になります。

*「門徒もの知らず、法華骨なし、禅宗銭なし、浄土情なし」という各宗派を揶揄する駄洒落がありますが、「門徒もの知らず」をソクラテスの「無知の知」と引っ掛けるなら、「念仏には無義をもって義とす」は「念仏には無知をもって知とす」となります。「念仏とは何かなど知らぬことを知っている、つまり(上記の義述語の解釈を「知る」述語に転用し)念仏が何か知らない、となります。それが「門徒もの知らず」の真意です。