言葉の相反する二つの力

 言葉は私たちの本質の一つとなってきました。言葉こそ人を人たらしめると信じられてきました。言葉に対する礼賛は尽きることがありません。でも、人は言葉を操るどころか、言葉に支配され、翻弄されてきたのもこれまた事実です。言葉の特徴は人を操ることにあります。言葉のもつ否定的な側面を徹底的に見つめるなら、人が言葉を獲得したのは進化の奇跡どころか、人の絶滅をもたらす要因になるかも知れないのです。

 言葉の負の側面を示すのが『創世記』11章。ノアの洪水の後、人はみな、同じ言葉を話していました。人は石の代わりにレンガをつくり、漆喰の代わりにアスファルトを手に入れました。こうした技術の進歩は人々を傲慢にしていきます。そして、天まで届く塔のある町を建てようとします。神は、人の高慢な企てを知り、怒りました。そこで、神は人々の言葉を混乱させます。世界中に多様な言葉が存在し、互いに意志の疎通ができないのは、バベルの塔を建てようとした人の傲慢を神が裁いた結果なのです。

 では、言葉の正の側面はどうでしょうか。新約でのペンテコステ聖霊降臨、五旬節)の祭りにはキリストの弟子たちが集まり、神のもとでの人々の一致団結と神の賛美とへ導かれます。そこでは異なる言葉がどれも祝福され、神を賛美するのにふさわしいものとされます。ダンテは「言葉の原罪」を描いて見せましたが、ウンベルト・エーコペンテコステの中に言葉の未来を託し、バベルの塔の呪いが克服され、新しい世界が生まれることを読み取っています。旧約が否定した言葉の役割は新約で再生しているのです。

バベルの塔ペンテコステは言葉のもつ二つの力をドラマティックに示しています。画像はピーテル・ブリューゲルバベルの塔」1563、エル・グレコペンテコステ」1600

 これらはあくまでキリスト教での話に過ぎません。言葉が生物学的な適応ではなく、むしろ人を終には絶滅に導くものだとすれば、それは「言害」と呼んでもいいかも知れません。人は公害を生み出す遥か以前に、言害を生み出していました。科学技術の発展によって物質的に豊かな生活を手に入れ、言葉の洗練によって精神的に豊かな文化的生活も手に入れました。いずれもその裏には害がありました。公害と言害です。公害は辛うじて克服できたとしても、言害がどうなることか、今のところ誰にも予測できません。

*生成AIは確かに幾つかの言害を生み出しています。