台詞の長短

 「せりふ」は江戸時代のはじめ頃から使われている単語で、「世流布」(せるふ)が変化したもの、あるいは「競り言ふ」(せりいう)が詰まったものと考えられている。また、漢字の「台詞」は「舞台詞(ぶたいことば)」の省略形、中国語の「科白」は「科」が劇中の俳優のしぐさ、「白」が言葉のことで、俳優のしぐさと台詞の両方を意味している。明治以降の漢字表記は「科白」と「台詞」の二通りで、それぞれ「かはく」、「だいし」と読むこともある。今では「台詞」や「せりふ」より、「セリフ」の方が普通に使われている(英語の「Serif」は別の意味)。

 さて、1950年代のハリウッド映画は台詞が長く、英会話の練習に役立った。俳優はみな発音が丁寧で、わかりやすかった。私が特に好きだったのはエリザベス・テイラー。彼女を喋らせたら、秀逸この上なく、立て板に水。ジョン・ウェインの話し方は確かに西部の男の典型なのだろうが、私には真似のし難い台詞ばかりだった。台詞の見事さを感じたのが「風と共に去りぬ」で、的確で印象的な台詞が飛び交っていた。

 そんな映画と違うと感じたのが若きクリント・イーストウッド主演の映画。台詞は文学的でなくなり、即物的、直接的で、そのためか、台詞は極端に短くなった。シェクスピアの舞台とは正反対で、凄いスピードの展開が人々にウケた。晩年の彼の台詞も滋味豊かな短詞で、私はいぶし銀の痛快さを感じている。

 FacebookやBlogからTwitterなどへとSNSの手段が移り、トランプ前大統領はそれを巧みに使って当選した。短く呟くだけで瞬時に情報は拡散し、誤解が誤解を生み、それが果てしなく広がっていく。短い台詞、短い会話は正にLINEの特徴そのもの。

 台詞ではないが、短歌や俳句は確かに短い。だが、だからこそ言葉を選び、文学的センスが短い文字数の中に凝縮されている。それはエリザベス・テイラーマーロン・ブランドの色気のある語り方に決して負けない。芭蕉の俳句はシェクスピアの作品と同じように人々の心に響く。言語表現の長短のもつ意義は単なる情報伝達から文学作品まで実に多様、深遠で、哲学的である。

 短いコミュニケーションが舌足らずの情報しか運ばないだけならよいが、言葉の力を変質させ、言葉を敢えて粗悪な表現装置に変えていくような気がするのは私だけではない筈である。些細な例だが、「きもい」は「気持ちが悪い」の省略形と言われているが、「気持ちが良い」も「きもい」ではないのかと私は思案迷想してしまう。