自民党にとってはとんでもない年末だが、自らの責任についてはっきり触れられることはなく、沈黙の時間が流れている。かつて前夜祭をめぐる問題で不起訴処分となった故安倍晋三元首相は法的責任がなくなったと考え、「今般の事態を招いた私の政治責任は極めて重いと自覚している」、「私が知らない中で行われていたこととはいえ、道義的責任を痛感している」と述べている。ここに登場する三つの責任の関係は曖昧で、何が重要かは法的、政治的、道義的の順であると多くの政治家には受け取られているようである。
中国に禅を伝えた達磨が傲慢な武帝と問答し、武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏教最高の真理は何か)」と尋ね、達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして聖なるものなし)」と応じ、そう答えるのは誰かと問う武帝に、達磨は「不識(ふしき)(知らない)」と答える(『碧巌録』第一則)。この禅の公案の「第一義」を「人生の第一義」と解釈したのが夏目漱石の「第一義」。漱石は「何の第一義」かを「人生の第一義」と定め、人生におけるもっとも重要な真理、つまり人生の第一義は「道義に裏打ちされた生き方」という答えを『虞美人草』で描いてみせた。漱石に従えば、人生で最も重要なのは道義的な生き方であり、それゆえ、法的、政治的責任より道義的責任がより重要だということになる。
多くの政治家が考える責任の順序と、漱石のそれは明らかに違っている。三つの責任の間に軽重の違いがあるというのが政治家だけでなく、世間の通り相場のようである。責任の重さを計る信頼できる尺度も術もないのに、その責任の軽重を議論するとは何とも軽々しい所業で、いかにも世故に長けた人々が考えそうな悪知恵としか言いようがない。
「罪と罰」は小説のタイトルになるほどに、いつも対になって考えられ、使われてきたが、1対1のしっかりした対応関係が罪と罰の間にある訳ではない。罪と罰の対が考えられても、時代、地域によってその関係は随分と違っていた。罪の概念が明瞭でなければ、罰が決められず、罰がはっきりしなければ、罪も曖昧になってしまう。それを一挙に解決しようというのが罰則付きの法律である。
法律は曖昧な罪を明瞭にするために罰を設けている。罰である実刑は明瞭で、それゆえ、社会では極めて有用。だから、罪と罰が法律によって定められていれば、罰を受けることが個人の責任の遂行につながる。「責任を果たすこと」=「罰を受けること」であり、「罪を犯すこと」=「法律に違反すること」であるから、法律がある限り、責任は罰を受けることによって果される。これが一般的な道義的責任や政治的責任と違うところで、道義や政治の責任にはそれらに対応する領域(心の中の世界と政治の世界)をカバーする法律が十分ではないのである。
このように考えてくると、三つの責任の軽重は法律がカバーできる範囲の広さによっていて、カバーしにくい道義的、政治的責任は法的責任より軽く、精神的な道義的責任は政治的責任よりさらに軽いことになる。何とも身勝手な理屈としか言いようがない。