金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」:一視同仁

 斐太神社の石碑「郷社斐太神社」、「延喜式内斐太神社」に比べ、小出雲の賀茂神社の石碑は「賀茂神社」、もう一方は「一視同仁(いっしどうじん)」の碑で、これが何を意味するか気になります。「一視同仁」は「視を一にし仁を同じくす」と読みます。「一視」は平等に見ること、「同仁」はすべてに仁愛を施すこと。一視同仁は依怙贔屓(えこひいき)の反意語で、ほぼ公平無私という意味で、すべての人を分け隔てなく、平等に愛すること、つまり、loving every human being with impartialityということ。

 「一視同仁」は中唐の文人政治家韓愈(かんゆ、768-824)の『原人(人の本質を原(たず)ねる)』の中に出てきます。韓愈は古文復興運動を勧め、儒教の復興を目指し、古文復興運動を提唱しました。「原人」、つまり人の本性を探ることによって「一視同仁」の主張となるのですが、人の本性は同じどころか多様性に満ちています。人が違えば、本性も異なるとなると、一視同仁は可能と言えるのでしょうか。人の本性は様々でも、それらを差別せずに公平無私に扱うことは実際に可能なのでしょうか。人の本性(Human Nature)は依怙贔屓の塊、好き嫌いの塊であり、個人差に溢れています。しかし、その違いを乗り越え、「一視同仁」の扱いをすることは民主主義のスローガンにさえなってきました。人には差異があり、それが個人差として、個性として、社会的に認められてきたのに対し、人の権利として自由で平等でなければならないと叫ばれたのです。ここで改めて私が述べる必要もないことですが、「異なる個性、形質をもつ人たちを一視同仁の立場から捉える」ことは実はとても厄介で、困難なことです。でも、人はその途方もない願いを目標にして、今でもその夢を飽くことなく追い続けています。

 個性、多様性、相対性を認めながら、自由平等を訴えることが一視同仁の主張であったとすれば、金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」の「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」も類似の主張なのだと言えるでしょう。「ちがっていても、みんないい」と言えるにはちょっとした悟りが必要かもしれません。