方便の功罪(3):果物

 私たちに馴染み深い果物類について、簡単にその由来をまとめてみましょう。

 まずはミカン類。ミカン類の歴史は古く、『日本書紀』や『魏志倭人伝』にも果物として橘(たちばな)が言及されています。『古事記』に登場する田道間守(たじまもり)が病気静養の垂仁天皇の勅命で、中国から橘を持ってきたのが始まりです。彼を祀った「橘本神社」近くの六本樹の丘をきっかけに多くの橘が地域に広まりました。さらに、空海最澄が広めた密教から山岳信仰が流行し、白河上皇などの時代の権力者が熊野参詣を行うようになり、多くの人が和歌山を訪れるようになり、その道中で土産としてみかんが売られていました。戦国時代が終わり、和歌山のみかんに着目したのが徳川家で、その後は日本中に広まります。

 次はリンゴです。リンゴが日本に渡来したのは、平安時代中期とされています。当時は「和リンゴ」という粒の小さな野生種で、観賞するためのリンゴでした。平安時代から明治時代にかけて栽培され、供え物として珍重されましたが、西洋リンゴの導入とともに衰退。現在食べられている「西洋リンゴ」が普及したのはアメリカから75品種を輸入、苗木を全国に配布した明治4年1871年)以降です。

 三番目はブドウ。日本にブドウが渡来したのは奈良時代。原産地からシルクロードを経て、唐から入ってきました。718(養老2)年、各地を行脚した高僧・行基が、甲斐国勝沼山梨県甲州市)の柏尾山大善寺に薬種園を設け、そこでブドウ(甲州種)の栽培を始めました。最初の葡萄園は現在の山梨県甲州市付近で、ヨーロッパブドウの一種である「甲州」種の栽培を行ったことに始まります。勝沼周辺の農家では鎌倉時代からブドウ栽培が広まり、江戸時代には甲州ブドウの名声が高まりました。

 最後がザクロ。ペルシャ原産で、西へはシリアからエジプトに伝わり、さらにギリシャに伝わって「カルタゴのりんご」と呼ばれました。種が多いことから、ギリシャ・ローマ時代には「豊穣のシンボル」となりました。約2000年前にペルシャからシルクロードを経由してアジアに伝わりました。日本には平安時代に中国から渡来したと考えられています。当時は主に花の観賞や薬用として使われました。

 鬼子母神伝説は『法華経』の中に出てきます。鬼子母神は500人もの子供を持つ美しい神様で、自分の子供たちを育てるために人間の子供をさらって食べていました。これを知った釈迦は鬼子母神の末っ子を神通力によって隠してしまいます。鬼子母神は嘆き悲しみ、必死に我が子を探しますが、みつからず、困り果てて釈迦に助けを求めました。釈迦は「500人も子供がいるのに、たった1人がいなくなっただけでこんなにも嘆き悲しんでいる。たった数人しかいない子供をお前に奪われた人間の親の気持ちがわかっただろう。」と言って鬼子母神に子供を返しました。そして、人の子が食べたくなったら、代わりに食べるよう与えられたのがザクロでした。鬼子母神は改心し、以後は安産と育児の神様となりました。そのため、鬼子母神は左手に子供、右手にザクロを持っています。ザクロは子孫繁栄をあらわす縁起の良い果実とされ、「吉祥果」とも呼ばれます。