人の想像力の本性:キメラ

 怪物の姿は洋の東西を問わずよく似ています。このことは、人間の想像力は似たり寄ったりで、それもあまり優れたものではないということを示しているように思えてならないのです。結局のところ、ギリシャ神話のキメラも『平家物語』や能、歌舞伎に登場する鵺(ぬえ)も、私たちが住む世界(顕界)にあるものを組み合わせて合成したものに過ぎません。ですから、私たちには顕界の生き物が自然に見える分、合成された怪物はどこか不自然で、しかも滑稽に見えるのです。実際、鵺もゴジラも不自然で、どこか滑稽です。

 ギリシャ神話のキメラは「ライオンの頭、山羊の胴体、蛇の尻尾」を持ち、『平家物語』の鵺は「サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足、尻尾はヘビ」です。これが『源平盛衰記』では「背中がトラ、尻尾がキツネ」となり、その鳴き声は「ヒョウヒョウ」という寂しげな鳴き声。中国の麒麟も似たり寄ったりで、顕界の様々な生き物のパーツを合成したのが冥界のキメラ、鵺、麒麟と言うことになります。この合成が不自然で、非現実的であることから、ユーモアが生まれてくるのかも知れません。

 SFにも様々な怪物が登場し、今様のキメラの宝庫になっています。典型的なE.T.やエイリアンは顕界の対象のパーツの組み合わせですが、「2001年宇宙の旅」のモノリスや「ブレードランナー」のレプリカントは何かを象徴するものとして工夫されていて、滑稽で間抜けな姿が極力避けられているのがよくわかります。

 とはいえ、これらの例だけからも、人の想像力はたかが知れていて、顕界の対象の組み合わせを変えて、冥界の対象を再構成するというキメラ手法がもっぱらであり、顕界の状態の組み合わせの変化ではないのです。物の組み合わせを工夫するところに人の想像力の本性があるようです。「「死んでいる猫と生きている猫」が重ね合わされている怪物」と言っても、それは大半の人には意味不明であり、怪物でも何でもないのです。

 気障な謂い方をすれば、アリストテレス的な物理学や古典力学が扱う対象の組み換えを想像力によって作り上げたのがこれまでの冥界のほとんどの対象なのです。小説の世界がほぼこのようにつくられてきたのに対し、詩の世界は稀に状態変化を言葉で表現しようとしてきました(詩は想像力の賜物)。兎に角、私たちが知っている冥界の怪物は量子力学的な状態変化の合成ではないのです。つまり、状態を重ね合わせる、状態が分岐するといった仕方で冥界の怪物はつくられてはいないのです。

*重ね合わせも分岐による多世界も、それらを上手く想像することはできないのですが、二つに分ける方が重ね合わせるよりわかりやすいように見え、それがエヴェレットの考えの核心なのかも知れません。鵺の浮世絵は歌川国芳「木曽街道六十九次乃内京都鵺大尾」(嘉永5年)、「大尾」はシリーズの最後と蛇の尻尾をかけています。

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