釈迦の仏教(2)

 釈迦が亡くなると、弟子たちは記憶した釈迦の教えをまとめます。これが初期の経典で、どれも口伝です。経典は「如是我聞(私はこのように聞きました)」という言葉で始めるという約束になっていて、口伝形式は次第に一定の書式をもった文書になっていきます。口伝で教義を伝えることは秘密の保持には大変いいのですが、情報の正確な伝達ができないという欠点をもっています。弟子たちが釈迦の権威を独占できるだけでなく、勝手に教義の中に別の考えを忍び込ませることもできます。伝言ゲームが情報を正しく伝えないのと同様、口伝も教義の正確な伝達には不向きなのです。
 キリスト教イスラム教などでは、教義が整合的かどうかが重要で、皆で同じ教えを信じようと何度も議論し、協議を重ねてきたのですが、仏教では一度もこのような調整は行われていません。どこかが根本的に違うとしか言いようがありません。ですから、「如是我聞」で始めれば何を言っても仏教のお経ということになりかねません。事実、仏教の経典は莫大な数にのぼり、最初から諸説乱立だったのです。
 その上、仏教以外の考えが混入した証拠が今でも残っています。バラモン教の神様が最初から多数紛れ込んでいます。例えば、弁財天、帝釈天などの「天」のつく仏様はバラモン教の神様でした。新興の仏教教団がバラモン教などの既存の教団から迫害を受け、妥協のためにこのような神様も認めてしまったのが理由のようです。
 紀元前3世紀にマウルヤ朝のアショーカ王が仏教を庇護し、インドに仏教の信仰が広がります。原始仏教の教えを説いた経典は「阿含経」と呼ばれていますが、仏教建築としてのストゥーパ(仏塔、日本の五重塔の原型)が広範囲に作られ始めました。さて、キリストが生まれた頃に仏教教団内で宗教改革運動が起こります。それまでの仏教の修行は個人的なもので、自分自身の修行が中心でした。そこに、人間なら誰でも救う方向に変えていくべきだ、という意見が出てきます。それは、出家者が自分のことだけを考えて在家の信者を締め出し、自分だけ修行に励むというやり方では決して本当の悟りは得られないという信念に基づいたものでした。この改革グループは一方的に従来の仏教を小さい乗り物(小乗)、自分たちを大きい乗り物(大乗)と呼びました。こうして仏教は西暦1世紀頃に大きく二派に分裂したのです。キリスト教宗教改革よりはるか以前のことです。
 大乗仏教の成立には、二つの意味があります。一つは仏教と言いながらも釈迦の本来の考えから別れて独自の仏教をスタートさせたということ、もう一つは仏教のプロ、つまり僧侶が登場することです。この改革は仏教が唯一の教義をもたないだけに一歩間違えば全く別の宗教になる危険をもっていました。今日の日本仏教はこの宗教改革によってできた大乗仏教に基づいたものです。
 大乗仏教が誕生した結果、釈迦の思想の継承だけでなく、膨大な数の大乗経典が生まれ、独自の哲学や倫理学が展開され、思想としての深みが増していきます。「極楽浄土」という天国、ユートピアが発案されたのもこの頃です。
 西暦1世紀にインド北部のイラン系のクシャーナ族が南下し、インド北部に侵入します。ガンダーラ地方では大虐殺が行われ、人々は仏教に救いを求め、苦しい状況の中で釈迦の姿を見たいとの強い想いから釈迦の姿を石に刻んで拝むということを始めました。こうしてガンダーラで仏像が生まれますが、それは釈迦の死後500年ほど経ってからのことでした。 釈迦は偶像崇拝を固く禁じたので、釈迦の姿を拝むという風習は原始仏教にはありません。この時点で仏像を刻んで拝むということが定着し、それが仏教圏全体に拡大普及します。ガンダーラ地方は東西の交易路、南のシルクロードに位置していましたから、ギリシアの影響を受けて彫刻としても洗練された仏像が作られるようになります。
 その後、インドを征服したクシャーナ族のカニシカ王ストゥーパ(仏塔)を建立し、仏教を庇護しました。カニシカ王によって仏教が国際的な広がりをもつようになり、仏典と仏像、それに仏教建築が中国に伝わりました。
 原始仏典、大乗仏教、仏像について見てきましたが、原始仏教が今の私たちの仏教観とは随分違っていたことがわかります。