辛夷の集合果からの連想

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 文系の若者なら、人の欲望と想像力を巧みに混じり込ませて辛夷の集合果の形状をネタに惡の華をまき散らすこと必定でしょうが、私にはそんな才覚はありません。それでもオッカナビックリ、まずは映画作品をネタに使ってその真似事をしてみましょう。

 まず、コブシの集合果の異形の形態はプロテウス症候群を彷彿させます。1980年製作の「エレファント・マンThe Elephant Man)」の舞台は19世紀のロンドン。生まれつき奇形で醜悪な外見のため「エレファント・マン」として見世物小屋に出ていた青年がジョン・メリック。肥大した頭蓋骨は額から突き出て、腫瘍が身体中にあり、歪んだ身体で杖なしには歩けない状態でした。彼に興味をもった外科医フレデリック・トリーブスは彼を引き取り、彼の様子を観察しました。すると、トリーブスはジョンが聖書を熱心に読み、芸術を愛することに気づきます。実は、コブシと「エレファント・マン」との関係は何もありません。集合果の形態だけが私の個人的な連想を引き起こしたに過ぎません。

 次に、果実が集合したコブシの名前が映画「Magnolia」の命名理由の一つと推測して、集合果と群衆劇を比喩的に重ね合わせて映画のシナリオができ上がっていると解釈してみましょう。物語に登場する面々は、女を掴むコツをレクチャーするカリスマ、フランク・TJ・マッキー、ヤクに溺れ、自堕落なボロボロの生活をしている、クローディア、その彼女の父親で人気テレビ司会者のジミー・ゲイター、そして、その妻のローズ。さらに、ジミーが司会するクイズ番組で、連勝をしている天才少年スタンリー・スペクター、昔のクイズ番組で天才少年と持て囃されたが、電気商店でセールスの仕事をしているドニー・スミス、末期ガンにより死の間際にいる大富豪、アール・パートリッジ、その大富豪を介護しているヘルパーのフィル・パルマ、その大富豪と結婚をしたとても若い妻、リンダ・パートリッジ。最後に、警察の仕事に誇りをもち、質素で善良な生活が好きな警官ジム・カーリング。そんな彼らが一つの街の中で様々に関わり合っていきます。この映画を見た後で、大抵の人は「一体この雑然として話の群はなんだったのか?」と訝しく思う筈です。この映画は「明解な答えを観客に与えないようにつくられている」からだと想像したくなります。登場人物同士の「繋がり」はあっても、それぞれの人生はみんなバラバラ。ですから、「人生に一定の法則はない」という法則を描くのがこの映画のテーマなのでしょう。「Magnolia」が木蓮ならば、それはミシシッピー州の州花。でも、この作品のタイトルの由来は、舞台になっている地名のサン・フェルナンド・バレーの「マグノリア・ストリート」から。映画の最後は誰もが驚きます。現状を変えたいと思っていても、日々積み重ねられてきた習慣、人とのしがらみは立ち切れません。そこに来てカエルの大雨。台風が近くの池のカエルを巻き上げたのでした。蛙は聖書で「変わる、リセットする」などの意味を持ち、「やり直せる、リセットできる」という暗示になっています。

 聖書絡みのカエルから想起されるのは「2001年宇宙の旅」。単独で探査を続行したボーマン船長は木星の衛星軌道上で巨大なモノリスと遭遇、スターゲイトを通じて、人類を超越した存在スターチャイルドへと転化します。キリスト教が顔を出すと、シナリオは途端に黴臭いものになります。21世紀ならば、聖書を持ち出すなどという時代錯誤なことはしないのかも知れません。「マグノリア」も「2001年宇宙の旅」も、その点では古典的スタイルを踏襲し、パターン化されています。生き物の世界の真のダイナミズムが教義や勧善懲悪の倫理の眼鏡で曇ってしまうのです。

 さて、これらが文系崩れの妄想です。コブシの集合果の本性をしっかり突き止める前に、巧みな思い込みと想像によって映像を媒体にして人や世界の真実を描くことに使われるというからくりのほんの一部は明らかになったのではないでしょうか。私の無駄話はこの位にして、肝心のコブシの集合果に話を戻しましょう。

 コブシの生態から想像力を発揮して私たちの心に訴える物語をつくることは文学者にとっての本懐なのでしょうが、それはコブシについての真正の知識であることとは余り関係がなく、それを知識と仮定した上で、どのような物語が展開されるかに人々の関心はもっぱら向けられます。この偏重や不公平は腹立たしいものですが、それが人間の関心というもので、単純な事実の究明よりスリリングな物語の展開の方に圧倒的な関心が払われるのが人の常です。文学者が人間的で、科学者が非人間的なのではなく、文学が科学より人間の本性に密着し、それを巧みに利用することに長けているからに過ぎません。要は、文学の方が科学より人間を知っているに過ぎなく、文学の方が狡いのです。

 コブシの集合果が動物たちを集めるための適応かどうかは意外とわかっていません。果実が動物を使った繁殖方法の一つであることはよく知られていますが、コブシの事例についての実証研究は意外に少なく、大抵は推測の域を出ていません。コブシの果実は美味しくなく、美形でもありません。中の種子も動物の関心を引くものをもっていません。にもかかわらず、映画がつくられ、その原因の一つがコブシの生態だということになれば、ちょっとは好奇心も湧いてくるものです。コブシについての生物学的な常識を受け入れ、それを使って想像を働かせ、何本かの映画に結実した訳です。コブシについての正確な知識は映画には求められません。それは私たちの日常生活でのコブシについても同様です。私たちの社会は一定の間、一定の基準を満たせば、コブシの常識を黙認し、擁護さえするのです。

 人の見方は様々なのですが、売り物の果実に慣れ親しんだ私たちには野生の果実の形状が解せないのです。本来は売り場の果実の方が解せない形状な筈なのですが。生物学的には、被子植物の果実はその中に種子を含む構造になっています。被子植物の種子は子房の中で成熟し、その子房が果実になるので、被子植物の種子は果実に入っています。このような果実は、植物の繁殖戦略として、動物の食料になる部分を種子の周りに発達させ、食われることによって動物の体内を通じて種子をまき散らすという目的のために進化しました。動物の側から見ると果実は往々にして糖類に富み、消化のよい食物です。そのため葉や茎を食べる草食動物のような消化の難しさはなく、特殊な適応は必要ありません。

 ところで鳥は本当にモクレン科樹種の赤い種子を食べるのでしょうか。既述に従えば、最初からモクレンの仲間の赤い種子は鳥がついばむもの、つまり、種子散布の主役は鳥であるとの仮説、思い込みが前提となっています。でも、赤い種子を鳥がついばんでいる風景など見たことがありません。そこで調べてみると、一応は鳥が散布者として概念的には整理されていますが、要は余りよくわかっていないというのが実態のようです(渡辺朝一「コブシの果実を採食する鳥類」我孫子市鳥の博物館調査研究報告、vol.15No.2(2007))。