意味の本性(2)

[クワイン、経験主義の二つのドグマ]
(W. V. Quine (1951), Two dogmas of Empiricism , Philosophical Review 60 (1):20-43. From a Logical Point of View: 9 Logico-Philosophical Essays, (Harvard University Press, 1953). 中山浩二郎・持丸悦朗訳『論理学的観点から――9つの論理・哲学的小論』岩波書店、1972年 飯田隆訳『論理的観点から──論理と哲学をめぐる九章』勁草書房、1992年)
クワインによれば、検証主義(Verificationalism)そして経験主義は二つのドグマをもっている。まず、その二つが何かを述べておこう。

(ドグマ 1)その真理が語の意味と事実の両方に依存している(つまり、総合的な)文と語の意味にだけ依存している(つまり、分析的な)文とは区別できる。
(ドグマ 2)有意味な文はすべて直接的な感覚経験に言及する語から論理的に構成されたものであり、それゆえ、それら文は経験によって確証あるいは反証できる。

クワインはこれら二つがドグマに過ぎないことを示し、それらを拒否することによって、新しいタイプの経験主義を主張しようとした。

(問)分析的、総合的の区別を今一度復習し、多面的に説明しなさい。
(問)意味と検証の関係を調べ、まとめなさい。(ヒント:検証主義は、命題の意味はその真理条件ではなく、その検証条件である、という主張である。)

(ドグマ1: 分析性に反して)
分析的な真理を、(1)論理的な真理(トートロジー)、(2)(本来の)分析的真理にまず分けよう。「すべての未婚の男は男である」は(1)、「すべての寡夫は男である」は(2)の例である。クワインは(2)が問題を孕むと考える。分析的真理が論理的真理に還元されることを演繹するために分析的真理の中の語の意味に頼ることができ、その鍵は同義語にあると思われていた。同義語を代入することによって次の命題をつくることができる。

ある文Sが分析的である iff  文Sは同義語の代入によって論理的真理(つまり、トートロジー)に還元可能である
(iffはif and only if の省略形)

寡夫」は「未婚の男」を意味しているので、前者に後者を代入する。すると、(2)は(1)に還元されることになる。分析性を解明するには表現の同義性を解明しなければならないが、そのために次のような試み(試み1、試み2)が考えられる。

・試み1:(定義)表現E1, E2は同義である iff  E1がE2として定義される

ところで、左辺に登場する定義とは何なのか。定義の定義には三つ考えられてきた。いずれも不備な点をもっている。
 まず、定義は辞書をみればいいという考えである。辞書は言葉の意味を集めたもの、つまり、定義集のようなものだという考えである。すると、

表現E1 はE2として定義される iff  辞書がそのように言う

ということになるだろう。だが、これは循環している。辞書は既にある同義語を記しているに過ぎない。
 次は定義とは解明である、説明である、という考えである。つまり、

表現E1はE2として定義される iff  E2 がE1を解明する(定義し直す)

ということである。だが、これも循環している。「未婚の男」が「寡夫」を解明するなら、少なくともある文脈ではそれらは同義である。
 三番目は、定義は省略のためという考えである。つまり、

表現E1 はE2として定義される iff  E1はE2の省略である

となる。「USA」の定義は「United States of America」であり、それは正に省略である。だが、多くの分析的真理は省略ではない。

・試み2: (交換可能性)表現 E1とE2は同義である iff 「…E1…」 と「„…E2…」 が同値(同じ真理値をもつ)である
寡夫」と「未婚の男」は同義である。なぜなら、「太郎は寡夫である」と「太郎は未婚の男である」は同値である。だが、二つの表現は同じことを意味していなくても実際に交換可能である。 「心臓をもつ生き物」と「腎臓をもつ生き物」は交換可能であるが、異なる意味をもっている。
さらに、意味論的規則を考えることもできる。それによれば、

文Sは言語Lに対して分析的であるiff  Lの意味論的規則だけでSを真にできる

となる。だが、私たちは意味論的規則だけではどの文が真かを特定できない。というのも、私たちは暗黙のうちに分析性に訴え、それゆえ循環するか、それは完全に任意であるかのいずれかだからである。
 以上、どの立場で考えても表現の同義性をうまく扱うことができない。同義性がわからないと分析性もわからないということになる。
そこで、クワインが出す結論は次のようになる。分析性には何の説明もなく、分析的真理にもない。それゆえ、分析的と総合的の区別はない。だが、これは言い過ぎで、ある言語の中で二つの区別を理解することに問題がある、というのがクワインの主張である。

(問)同義性を定義することの難しさを具体的に説明しなさい。
(問)意味と同義性がどのような関係になっているか再考しなさい。

(ドグマ2:根本的還元主義に反して)
経験主義は世界についての文によってどのように経験的な証拠が表されるか説明しなければならない。検証主義は、命題の意味はそれが経験的に検証され得る条件である、という主張であった。分析性と同義性を今一度振り返っておこう。

分析性:ある文S が分析的である iff それが験証されるのは経験的に無意味な仕方によってである
同義性:文S とS*が同義である iff SとS*が同じ検証条件をもつ

根本的還元主義によれば、どんな有意味の文も直接経験についての文に翻訳可能である。カルナップはそれを実際に示そうとしたが、単純な文について失敗した。「日本のポストは赤い」はどのように直接経験についての文に翻訳されるのだろうか。個々の文は経験的な験証や反証を受け入れることができ、実際に検証できる、という検証主義の中にドグマ2が生き残っている。

(一つのドグマ?)
クワインは二つのドグマの根は一つであると主張する。文の真理は事実的要素と言語的要素に分けることができる。事実的要素は世界の中の事実からなり、言語的要素は文が経験的に験証されるか反証されるかの条件からなっている。ドグマ1からドグマ2が導き出され、その逆も成立する、つまり、二つのドグマは同値である。これがクワインの考えである。

(ドグマのない経験主義)
ドグマを拒絶することは、文の真理が事実的要素と言語的要素に分けられ、それによって経験的に個別的に験証、反証がなされるという考えを拒絶することである。ドグマ1を拒絶するために、文の真理を事実と言語の要素に分けることを拒絶する。ドグマ2を拒絶するには、個々の文を経験的な験証あるいは反証の単位とみなすことを拒絶することである。この経験主義は次のような諸概念を使ってその特徴を述べることができる。

・信念のウエッブ
私たちの信念は複雑に絡み合い、信念のウエッブを形作っている。物理世界に関する科学的な信念は個々の経験についての信念に大きな結果をもたらしている。逆に、個別の経験についての信念は科学的な信念に大きな結果をもたらしている。確かに、私たちの信念のすべては絡み合い、局所的な変化が全体に大きな影響を与えるような構造になっている。

・験証に関する全体論
この信念のウエッブは経験によって験証あるいは反証される。私たちの信念は絡み合っているので、改訂する、験証する、反証する信念は、ウエッブ全体に対して改訂、験証、反証することを帰結する。信念のウエッブが非局所的なのである。

・対抗的な経験
「対抗的な」経験とは私たちのもつ信念の再評価を促すような経験である。対抗的な経験が与えられると、私たちはその経験を拒絶するか、所持している信念を拒絶するかすることになる。例えば、アリストテレスの自然学という信念は幾つかの対抗的経験によって再評価、修正、改訂、廃棄がなされ、新しい物理学が生まれたと言うこともできる。具体例で考えてみよう。葛西橋通りに煉瓦の家屋が見えないことが、次の (1) に対する対抗的な経験であり、それは (1) に対する経験的な反例になっている。

(1) 葛西橋通りに煉瓦造りの家屋がある。

・緊密性(経験への緊密性)
ある信念が経験に対してどのくらい緊密かを示すために、対抗的な経験の下でその信念が改訂されるだろうという(主観的な)見込みを考えてみよう。信念が経験に対して緊密なら緊密であるほど、その経験によって信念が改訂される割合が高くなる。これを緊密度と呼んだとすると、(1) は特に緊密度が高く、次の(2) は緊密度がより小さく、(3)は極端に緊密度が低くなる。

(2) ケンタウロスはいない。
(3) 排中律

(問)上の(1)、(2)、(3)の緊密度の違いの理由を述べなさい。

・改訂可能性
全体論から帰結することの一つは、どんな言明も改訂可能である、という言明である。 どんな信念も極大の緊密度をもっていはいない。分析的真理があると考える人はその分析的な信念が極大的に緊密でないと受け取ることになるだろう。

(問)クワインによれば、ドグマのない経験主義が全体論的で、非局所的な経験主義であることを説明しなさい。

命題の中の信念は適切な調節が信念の中でなされる限り、合理的に改訂される。ある信念の改訂は別の信念の改訂を帰結する。
(1) を改訂することは葛西橋通りに住む史門が彼の煉瓦造りの家屋を愛するといった信念の調整を求める。(2) の改訂は、種と数千年の歴史の信念のより大きな調節を求めるだろう。(3)の改訂は、全面的な信念の調節を求め、直観主義論理の主張にもつながる。