桑:ヤマグワとマグワ

 山の栗と屋敷の栗が違うことを子供の私は知っていたが、山の桑と里の桑の違いは知らなかった。だが、それが大した違いではなく、一方を知っていれば他方も似たようなものだということを知ったのは大人になってから。ブナ科クリ属のクリがシバグリ(柴栗)またはヤマグリ(山栗)と栽培種に分かれるように、クワ科クワ属のクワもヤマグワ(山桑)とマグワ(真桑)に分かれる。いずれの実も山の方が小さい。

 湾岸地域では栗を見ない。今は栗の花の香りが懐かしい。栗がないように、桑も植えられていないと勝手に思い込んでいたのだが、桑の木が辰巳の公園に植えられていた。しかも、離れてはいるがヤマグワとマグワの二種類ともで、妙に嬉しい気持ちになる。造園業者に拍手したい気持ちは子供の頃の記憶を想起させてくれたからだが、自分の生まれた故郷への郷愁が湧いてくる。子供時代に親しんだ自然がそこに僅かでも再現されたかのようで、桑の葉や実が一瞬私を記憶の世界へ運んでくれたようである。

 クワの花は4-5月頃に咲くが、花弁はなく、雄花には4本の雄しべ、雌花には1本の雌しべがある。花の後には長さ5-14ミリほどの果実ができる。でき始めの若い実は白っぽく、次第に赤、紫、黒へと変化しながら熟していく。熟した実は柔らかくて甘みがあり、昔は子供のオヤツになった。

  ヤマグワ、マグワの葉は互生、葉身の形は切れ込みのないものからあるものまで多様、葉の先端が尾状に尖るものが多く見られる。ヤマグワの実はマグワの実と比較すると小さい。ヤマグワとマグワとの見分けは、果実についている花柱が長く、多い方がヤマグワ。マグワは花柱がほとんど残らない(画像)。

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古典物理学の描く世界(=ほとんどの人が共有している常識的だが、正しくない物理的世界観)

 科学革命の中でつくられ、20 世紀初頭までに醸成され、今でも中高校で教えられている自然観は次のようなものである。
<空間>
 宇宙空間には上下を区別するような特別の方向は本来存在しない。上下の区別ができるのはそこに何らかの物体(たとえば地球)があって、それに対する位置関係に区別、つまり方向があるからである。この特別の方向がないことが宇宙の「等方性」と言われる。また、宇宙には特別な場所がない。確かにいま自分のいる場所は特別な場所だが、それは自分にとって特別なだけである。宇宙の他の場所に生息する生物にとってはその生物の棲む場所が特別な場所になるが、宇宙自体に特別の場所はない。これが宇宙の「一様性」である。物理学は「区別する理由が何もないならば、同じだとする他はない」という考え方が好きである。このような「A とB を区別する理由がなければ,A とB は同じように成り立つ」という考え方を別の言い方で表現すると、「対称性によってA とB は等しい」となる。つまり、対称性によって空間のあらゆる方向と位置は同等である。その結果、空間は無限に広いと結論される。なぜなら、端があることは一様性の考えに反するからである。また、宇宙の端があるなら、その先に何があるのか考えなくてはならなくなる。その何かも宇宙の中に入れてしまえば、宇宙は無限に広いことになる。
<時間>
 時間についても同様の考え方ができる。格段の理由がないなら、「時間は太古の昔も現在も同じように流れていく」と考えるのが自然だろう。つまり、時間の流れには一様性があると思われる。このように、19 世紀末の人々は「端や初めがあるとすると、端の先に何があるのか、初めの前に何があるのかわからないから、時間も空間も無限だと思うことにしよう」と考えるようになった。このような世界観が成立する背景には、数学の発達と結びついて、ニュートン力学が圧倒的に強力であり、その「器、入れ物」として一番分かりやすく簡単な時間、空間の見方が普及したのだろう。しかし、一様性や等方性は「特別な理由がないならば」という条件付きで認めることができる特徴である。空間や時間を、その中に世界が入る空っぽの器のように考えると、この特徴はもっともらしいが、現実の世界はそうではない。そのなかに「物」があり、それが運動変化している。運動や変化に対するこの時代の主流となる見方は-そしてそれは現在でもある意味で主流となる見方ではあるが-因果的決定論である。ニュートン力学もマクスウェルの電磁気学基本法則は微分方程式の形で書かれている。ニュートン方程式f = maという簡単な形で、これを解けば、ある時刻の位置と速度からそれ以後のすべての運動が決まってしまう。マクスウェル方程式はこれより複雑で解くのも大変だが、それでも初期条件が分かれば、その後の様子が一義的に決まってしまうという点では同じである。
 無限に広がる一様で等方な空間と始めも終わりもない一様な時間、そしてその中にある「物」は因果的決定論に従って運動する。これが古典物理学の描く世界である。
 「解析力学」を学ぶと、「力→加速度→速度→位置変化」といった素直な見方とは違って、抽象化された座標や運動量が登場する。このような視野の拡大の結果、空間の一様性や等方性、時間の一様性といった特徴を認めることになり、高校で学んだ重要な物理法則が導き出される。空間の一様性が運動量保存の法則、空間の等方性が角運動量保存に法則、時間の一様性がエネルギー保存の法則に関係している。(「物理的な対象に何らかの対称性があるとき、 それに対応して何らかの保存量の存在が導かれる、あるいは、物理系に連続的な対称性がある場合はそれに対応する保存則が存在する」というのがネーターの定理の主張である。)
 これに対して様々な疑問が湧いてくる。たとえば、空間の反転対称性の問題がある。ニュートンやマクスウェルの方程式は、ある運動が起こるとすると、 それを鏡に映した運動も、映画に撮って逆回しにした運動も同じように起こっても構わない。しかし、本当に世界がそのようになっているかには疑問がある。誰でもが、過去へ戻っていくことと未来へ進んでいくことは同じでないと思っている。過去と未来の違いは明らかで、「歴史」とか「進化」が事実ということなら、基本法則が時間を逆向きにした運動を許すことと折り合いをつけなくてはいけない。また、因果的決定論は、物理法則が世界の運動を支配しているなら、私たちが持っていると思っている「自由意志」と矛盾しているように思える。いずれにしろ空間や時間の一様性や等方性、因果的決定論など古典物理学の中核となる世界観は、ある意味で信念や信仰に過ぎず、正しいかどうかは慎重な検討が必要である。
<相対性原理>
 空間や時間に関係する重要な原理に相対性原理がある。ここでいう「相対性原理」はアインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955)が発見した新しい原理ではなくて、「ガリレイの相対性原理」と呼ばれているものである。空間の一様性は特別な場所を否定するものだが、相対性原理は絶対静止空間の存在を否定し、物理現象を記述しようとする観測者に民主主義を保証するものである。少し詳しく説明しよう。
 私たちは物の見え方が相対的であることをよく知っている。自分の近くにあるものは大きく見え、遠くのものは小さく見える。この場合,同じところに持ってくれば大小ははっきりする。つまり物の大きさには絶対的な尺度があり、見掛けの大きさは自分からの距離とともに減少する。
 また、私たちは同じ場所かどうかが相対的だということも知っている。新幹線の同じ座席に座っていても、地球の上では1 時間に200km 以上も離れた場所に移ってしまう。駅のホームに降りてベンチに腰掛けていても、地球が自転しているから半日経てば初めの位置から数千キロ離れた位置に来ている。地球は太陽の周りを回っているから1 秒間に30km の速さで位置が変化している。こちらの方が自転速度よりはるかに速い。しかし、この速度は一体何に対する速度だろうか? このように位置や速度は他のものに対して相対的に決まるものである。ガリレイの相対性原理は、この位置と速度の相対性を認めるもので、力学現象に特権的な観測者(それゆえ、神の眼)はいないと主張する。物差しと時計を持った観測者のことを物理学では「座標系」と呼び、運動の第1法則の成り立つ座標系を「慣性系」と呼んでいる。私たちの日常的な感覚にしたがうと、時間の進み方はすべての座標系で共通で、物差しも同じものを使うことができる。相対性原理によれば、このような慣性系から他の慣性系(観測者)を見れば、お互いにそれぞれと一定の速度で直線運動している関係にあり、誰かが絶対的に静止していると主張する権利はない、ということである。宇宙が無限で等方的だと認め、物質を入れる空っぽの容器が空間であると思えば、ガリレイの相対性原理は受け入れやすい。
 ガリレイの相対性原理に従えば、速度はベクトルとして普通の足し算ができる。つまり、座標系Bで速度v’で動いている物体を、座標系Bが速度Vで動いてみえる別な座標系Aから見たらv’+ Vの速度で動いて見えるということである。お互いに等速直線運動する座標系を乗り変わることをガリレイ変換と呼ぶ。座標系Aでのある物体の座標をrと時間をtとし、座標系Bでのそれらをr’とt’として、式で書けば両者は

r = r’ + V t   t = t

の関係にある。時間は両方に共通である。初めの式をtで微分すれば速度の関係v = v’+ V が出てくる。

たかが名前、されど名前

 人が言葉に関わるゆえに、言葉は混乱するが、それが言葉の宿命。最近のコロナ禍では実効再生産数R(=(1-e)R0)が注目され、R0とRでは人のかかわり方が随分と異なる。基本再生産数R0は対象としての人のもつ値で、ヨーロッパの第一波での値は2.5。私たちが自粛によってその値を下げて、流行を押さえ込むには1以下にする必要があり、(1-e)R0<1から、0.6<eで、それゆえ、eが0.6より大きな0.8なら確実であるから、8割自粛。このRの値は行為主体としての人のもつ値で、私たちが変えることのできる値。

 いきなり面倒な話となったが、人が関わる命名や同定はその典型例として長い歴史をもっている。今日の名前はホザキマンテマ、シロバナマンテマ、そしてマンテマ。5月5日にシロバナマンテマを挙げ、「マンテマの一番大きな特徴は花の色で、赤い花を白で縁取りしているのに対し、シロバナマンテマは白かピンク色で、地味である。花弁の幅もシロバナマンテマの方が細い。」と述べた。マンテマとシロバナマンテマとなれば、マンテマが基本で、白色の花をつけるのがシロバナマンテマと誰もが推測するが、実はシロバナマンテマが基本種で、しかもその花の色はピンク(画像)。これでは人の命名が雑音でしかない。

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シロバナマンテマ

 最近の癖で道端ばかり見て歩いていると見つかったのが小さな白い花。文字通りのシロバナマンテマかと思ったのだが、調べ出すとホザキ(穂咲)マンテマという別の種が見つかる。江戸時代に、暗赤色で縁の白い5弁の花をつけるマンテマが観賞用に持ちこまれ、後に逸出し、野生化。なぜ「マンテマ」という名前になったかは不明。

 これに対してホザキマンテマは上の二種とは別種。ホザキマンテマが最初に採集されたのは1950年の北海道。今では日本中に広く分布している比較的新しい帰化植物ホザキマンテマの花の色は白色でシロバナマンテマに似ているが、ホザキマンテマの花弁は深く切れ込んで、10弁の花に見える。

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シロバナマンテマ?

 そこで私の見つけた白い花の植物は何かということになるが、切れ込みがあることからホザキマンテマらしいと推定できるが、花弁の切れ込みは僅かで、シロバナマンテマとほぼ同じ。人である私が花の同定に関わることが、後に混乱を引き起こすことから、対象としての私と行動する(同定する)私の基本的な違いをまずは名前の同定の場面で見出すことになる。そこで私が出す判断は「わからない」という混乱を起こさない一手で、さらに調べるしかない。

感覚は信用できる

 ニオイバンマツリもハコネウツギも二色の花が咲いているように見えながら、実はそうではなく、花の色がある色から別の色へと変わっていたのです。これは時間をかけて観察を続けないとわからないことで、感覚が信用できないのではなく、時間を置いた観察を続け、その時々の感覚を信用することによって手に入れることができる知識なのです。それがわかれば、「どうして一つの木に色の違う花が咲くのか」という疑問への「源平咲き」の答えは誤りで、「どうして花の色は時間の経過とともに変わるのか」という問いが適切だということになります。

 ハコネウツギは何度も見ていたので、花の色が変わると直感していたのですが、白から赤か、あるいはその反対かは気にしなかったのです。ニオイバンマツリに至っては最初源平咲きの例かと盲信してしまいました。素人の恐いところです。

 「感覚が信用できない」、「感覚が信用できる」はどのように私たちが感覚を使うか次第で、それこそが感覚の両面であり、知識と感覚の結びつき方に依存しているのです。

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ニオイバンマツリとハコネウツギの花

 ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)は、ナス科の常緑樹で、南アメリカ原産。この辺は今咲き誇っています。漏斗状の花弁で5弁に開きます。花は咲き始めが濃い紫色で、次に薄い紫色、最後は白色になり、強い芳香があります。和名の匂蕃茉莉は、匂(香り)があり、蕃(外国)からの、茉莉(ジャスミン類)の意味。ニオイバンマツリの最大の特徴は、花の色が初めは濃い紫ですがやがて白に変わっていくところ。紫と白の色合いはとても上品で、数十メートル先までニオイバンマツリの香りが漂います。香りは、昼間より夜間のほうが強くなります。

 ハコネウツギ(箱根空木)はスイカズラ科の植物で、花期は5〜6月頃で漏斗状の花を咲かせます。ハコネウツギの花は白が次第に赤へと変化していきます。つぼみのときは白ですが、次第に赤色に変わっていくのです。

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感覚は信用できない

 同じ木の枝に二色の花が咲き、紅白が競うように咲くと、「源平咲き」と呼ばれ、それはウメだけでなく、モモ、ツバキ、ツツジ、ボケの仲間にもあります。本来は赤い花の木なのに、赤い花に必要な酵素が働かなくなることで白い花になってしまうのです。こんな説明の後で、最初のウメの画像を見ると、成程と納得してしまいます。

 では、紫と白や、赤と白の花について「どうして一つの木に色の違う花が咲くのか」という疑問への「源平咲き」の答えの応用でいいのか、それとも他に可能性がないのか、慎重な人なら考え出すのではないでしょうか。「どうして花の色は時間の経過とともに変わるのか」という疑問をもつ人もいる筈です。画像をいくら丁寧に眺めてもこれら二つの疑問への答えはわかりませんし、いずれの疑問が適切なのかもわかりません。それぞれの花を愛でるには感覚が不可欠ですが、その感覚は二つの疑問に答えようとすると、信用できないことがわかり、それが昔から感覚への信頼を低くしてきた理由なのです。

*二番目のボタンなど、一つの花が複数の色をもつことは誰も不思議とも思いません。なぜ当たり前のように思うのか、これもまた疑問の一つなのです。

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ゲーデルの不完全性定理

ゲーデルの定理は「知ったかぶり」がどのようなものかを腑に落ちる仕方でわかるための格好の例。この定理をわかるには実際に途中を省略せずに証明を辿ってみることだが、それが意外に厄介で、証明の多くの部分は「できる筈、そうなる筈」という妥当な推測に基づいて進められる。できるだけ省略せずに自ら証明を実行することが「知ること」とはどのような行為(計算)かを知ることになるのだが、それを教えてくれるのが不完全性定理の証明である。したがって、当然ながら以下の説明は典型的な「知ったかぶりの説明=説明擬き」に過ぎない。読者はこれで不完全性定理がわかったなどと妄想しないことが肝要で、定理の概要に過ぎないことを肝に銘ずべし、ということになる。>

 

 20世紀数学界の巨匠ヒルベルトは「数学理論には矛盾は一切無く、どんな問題でも真偽の判定が可能である」ことを数学的に証明しようと、全数学者に一致協力するように呼びかけた。これは「ヒルベルトプログラム」と呼ばれ、数学の論理的な完成を目指す一大プロジェクトとして、当時世界中から注目を集めた。
 そこに若きゲーデルが登場し、「算術を含む数学理論は不完全であり、決して完全にはなりえない」ことを数学的に証明し、ヒルベルトプログラムは呆気なく挫折することになった。ゲーデル不完全性定理とは算術を含む理論について次のように主張する。

(1)第1不完全性原理
 「ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」

(2)第2不完全性原理
 「ある理論体系は自分自身が無矛盾であれば、矛盾が無いことをその理論体系の中で証明できない」

*これよりほんの少し正確に表現すれば次のようになる。
第1不完全性定理 :自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理 :自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

 

 その要点を簡単に述べてみよう。たとえば、私が、「私は嘘つきだ」と言ったとする。もしこの言葉が「真実」であれば、私は「嘘つきである」ことになるが、そうすると「嘘つきなのに、真実を言った」ことになってしまい、おかしなことになる。一方、この言葉が「嘘」だとすれば、私は「正直者である」という事になるが、そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、おかしなことになる。結局、私の言葉が、真実でも、嘘でも、おかしなことが起こってしまうのだ。これは、「自分自身について真偽を確かめようとするときに起こってしまうパラドックス」であることから、一般に「自己言及のパラドックス」といわれている。ちなみに、「私は正直者だ」と言った場合でも、似たようなことになる。まず、この言葉が「真実」だった場合、正直者が「自分は正直者だ」と真実を言ったことになるので、問題なく成り立つわけだが、この言葉が「嘘」だった場合でも、嘘つきが「自分は正直者だ」と嘘を言ったことになるので、これまた問題なく成り立ってしまうのである。つまり、「私は正直者だ」という命題は、真でも偽でも、どちらでも成り立ってしまい、結局、真とも偽とも決められないのである。要するに、「おれって正直者(嘘つき)なんだよねー」と、自分で自分のことを言及したところで自分では、その言葉の正しさを絶対に証明できない、ということになる。
 このような「自己言及パラドックス」が、数学においても、同様に起こることが証明されたのである。それは、すなわち、一見すると、完全無欠に見える数学理論の中にも、「真とも偽とも決められない命題」「証明も反証もできない命題」が含まれていることを意味する(第1不完全性原理)。そして、数学理論において、証明不能な命題を含むということは、「正しいとも、間違っているとも言えない不明な領域」が数学理論の中にあるということなのだから、数学理論が「自らの理論体系は完璧に正しい」と証明することはそもそも不可能なのである(第2不完全性原理)。
 これがゲーデル不完全性定理についての知ったかぶりの説明擬きであり、当然ながら不完全な説明である。