天と地と

 何とも懐かしいタイトルだが、天にはセンダンとエゴノキ、地にはカラーとトキワツユクサ、いずれも白が基調の花が咲き、天も地も5月である。

 センダン(栴檀)は、センダン科の落葉高木。「栴檀は双葉より芳(かんば)し」のセンダンは実はビャクダン(白檀)のこと。そのビャクダンの花は白ではなく、赤い。5-6月頃に、センダンは若枝の葉腋に淡紫色の5弁の花を数多く、円錐状につける。花、葉、木材には弱い芳香がある。

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 エゴノキエゴノキ科の落葉小高木で、全国に見られる雑木。やはり5-6月に、枝先いっぱいに鈴のような花が咲く。独特の美しさがあり、「森のシャンデリア」と称され、横枝から出た小枝の先端に房状に白い花を下向きに多数つけ、やはり芳香がある。花冠は5片に深く裂けるが、大きくは開かずややつぼみ加減で咲く。

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 ミズバショウツユクサとなれば、季節がずれているが、カラーとトキワツユクサは同じ時期、ちょうど今頃花をつける。

 カラーはサトイモ科オランダカイウ属で、南アフリカ原産。日本には江戸末期にオランダから渡来。メガホン状のところがワイシャツの襟(Collar)に似ているところ、あるいは、その形が修道女の襟(カラー)を連想させるところからつけられたらしい。花はメガホン状のところではなく、内側真ん中の黄色い棒部分。となると、カラーは白ではなく黄色の花である。

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 トキワツユクサ常磐露草)は ツユクサムラサキツユクサ属で、観賞用として昭和初期に南アメリカから持ち込まれた。だが、今では多くが野生化している帰化植物ツユクサ やムラサキツユクサ の仲間だが、名前のように常緑で、今頃三角形の白い花が咲く。道ばた、野原などでよく見かけ、そのためか別名は野博多唐草(のはかたからくさ)。

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妙高(山)と深川

 妙高(山)は「妙高(山)」でなければ腑に落ちず、深川は「深川」と呼ばれてこそ深川だと大抵の人は疑うことなく断言する筈です。確かに、もののもつ性質を表現するためにつけられたのが名前だと考えるなら、富士山は「富士山」でなければならないことになります。でも、名前はものにつけられ、そのものを指示するにも関わらず、そのものの本来の性質を表す必要はないのです。「猫」はネコを指しますが、ネコの性質ではありません。「Cat」も「猫」もネコの性質を反映したものではありません。イヌやネコの名前は一般名詞ですが、固有名詞の場合も同じことです。私の名前は固有名詞で、私と私の名前の関係は偶然的なものです。地名はつけられた街や地方の性質ではありませんし、山や海の名前も山や海の性質を表現しているという訳ではありません。正確に言えば、ものの名前は偶然につけられても、そのものの性質を表すようにつけられても、いずれでも構わない、ということになります。

 固有名詞は、ある時、誰かによって命名され、それが因果的な変遷を経て現在に至っています。その過程が固有名詞の意味だと考えると、固有名詞は歴史的偶然とその後の因果系列の二つからなっていることがわかります。そんな観点から「深川」がいつ誰が命名し、どんな経緯を経て現在に至ったのか確認してみましょう。
 徳川家康により天正18年(1590年)から開削が進められていた小名木川の北側を開拓したのが摂津出身の深川八郎右衛門。慶長元年(1596年)に深川村ができます。材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門も一時住み、曲亭馬琴がこの地で生まれ、松尾芭蕉は深川から旅立ちました。1878年東京15区の一つとして深川区ができました。1947年に城東区と合併し、現在の江東区となります。こんなところが「深川」の意味ということになりますが、北海道にも深川市があり、少々気になります。でも、江東区の深川とは何の関係もないというのが答えです。北海道の「深川」は東京深川から移住した開拓民に由来するという話を広めたのは故司馬遼太郎の紀行文『街道をゆく』第15巻「北海道の諸道」の記述です。彼は深川市を訪れ、深川市の人々の一部は東京の深川出身だと言われたのを思い出し、それを記したのです。あの司馬遼太郎が書いたのなら、多くの日本人は文句なく信じてしまいます。名前の因果的経緯の中に誤りが紛れ込んだということで、これは固有名詞の宿命のようなものです。
 「徳川」では却下されたでしょうが、深川の名前は「堀川」でもよかったはずです。いずれでもなく、開拓を指揮した深川八郎右衛門に因んで命名され、それが様々な因果的な経緯を経て現在に至っています。命名は偶然的でも、その後の経緯は、その名前に意味を与え、名前と指示対象の間に切っても切れない縁があるかのような演出さえしているのです。つまり、経緯=歴史が偶然を必然に変える演出をしているのですが、その仕業は魔法としか言いようがありません。
 ですから、深川は「深川」でなくてはならず、妙高(山)は「妙高(山)」と呼ばれなければならないと私たちは信じるのです。
*名詞が何を指示するかについての上述のような考えは、Causal theory of namesと呼ばれ、Saul Kripkeによって最初に唱えられたものに基づいています。

クサノオウ再訪

 4月の初めに挙げたのが、とても大業な名前のクサノオウ(瘡の王、草の黄、草の王)。そのクサノオウがまだ咲いていた。ケシ科クサノオウ属の草本植物で、全草に約21種のアルカロイド成分を含み、その多くが人間にとって有毒。黄色い汁が皮膚に触れると炎症を起こし、誤食すると昏睡、呼吸麻痺、感覚末梢神経麻痺などを起こす。

 なかなか美しい姿をしているが、この美貌の陰には恐ろしい毒が潜んでいる。この毒を利用して、薬草として重宝されてきた。クサノオウという名前もそこに理由があった。日本中で様々な呼び方をされ、いずれも薬や薬効、毒に関わっていた。クサノオウは「草の黄」という説。これは茎や葉を切断すると中から黄色い汁が出るからだった。この黄色い汁こそ毒であり、薬である。次は「草の王」という説。これは薬草の王という意味。そして、「瘡(くさ)の王」という説。瘡とは皮膚病のことで、皮膚病を直すという意味。また、「瘡なおる」が「くさのうる」、そして「くさのおる」となり、更に末尾の「る」が略され、「お」が長音化して「くさのおう」になったのではないかとも言われている。

 どの意味にも通じるのが、薬草として昔から私たちの生活に密着していたこと。子供が迂闊に口に入れたりすると、大変危険な野草。鎮痛剤としてアヘンの代用に使われ、尾崎紅葉が胃癌になった時、弟子の泉鏡花がこのクサノオウの薬を入手するために大変苦労したという話が残っている。

 鮮やかな黄色の花にはヤマブキ、ヤマブキソウがあり、いずれもクサノオウによく似ている。だが、ヤマブキは5弁、ヤマブキソウクサノオウは4弁、葉の形でヤマブキソウクサノオウはまるで異なる。ヤマブキソウは有毒。

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白い花の木々

 イボタノキ(水蝋樹・疣取木)はモクセイ科の落葉低木。北海道から沖縄まで全国の野山に自生する半落葉樹。イボタノキそのものが庭木として使われることは稀だが、丈夫な性質を利用して垣根トして使われることがある。

 「イボタノキ」はこの木に寄生するイボタロウカイガラムシが樹皮上に分泌するイボタ蝋が、イボ取り、止血、艶出しに効果があるとされたことに由来する。今頃から7月にかけてネズミモチなどによく似た白い花を咲かせ、11月頃に黒紫色の実をつける。

 カマツカは北海道南部、本州、四国及び九州に自生するバラ科の落葉小高木。あまり目立たないが、低山や丘陵地帯で普通に見られる。元来は庭園に使われるものではなく、実用を目的として畑の境界線などに乱雑に植えられていたようなものだが、雑木ブームとともに庭木として使われるようになった。日本のほか、朝鮮半島にも分布し、材が緻密で非常に堅く、鎌の柄に使われたことからカマツカと名付けられた。

 プリペットは中国及びヨーロッパを原産とする常緑低木。軽やかな印象の葉が密生するため、公園や商業地の植え込みなどに多用され、どこでも見られる。正確にはプリベット(privet)。生育の旺盛なネズミモチやイボタノキの仲間である。今頃に画像のような白い花を咲かせる。花にはクリと似たような精臭がある。

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イボタノキ

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イボタノキ

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カマツカ

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カマツカ

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プリペット

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プリペット








 

知識帰命の異安心:日曜日の安心

 日本には浄土真宗の寺が圧倒的に多く、当然多くの国民が門徒ということになります。その浄土真宗には、「知識帰命の異安心(ちしききみょうのいあんじん)」という言葉があります。知識は指導者、帰命は帰依すること、誤った真宗教義が異安心(いあんじん)。つまり、「知識帰命の異安心」とは、「阿弥陀仏ではなく、指導者に帰依することは誤りである」という意味です。

 知識帰命の異安心は、親鸞の弟子である唯円が著したと言われる『歎異抄』にも述べられています。そもそも「歎異抄」というタイトルは、真宗教義の異(誤り)を嘆くという意味です。親鸞浄土真宗の開祖ですが、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ(『歎異抄』第6章)」と、自らに帰依することを嫌いました。特定の指導者への帰依を強調することは、浄土真宗に限らず、宗教が陥りやすい誤りです。仏教は、釈迦への帰依を基本としますが、釈迦自身も「私の悟った法は、過去にも悟る者がいたし、未来にも悟る者がいるだろう」と語っています。とはいえ、信者は釈迦や親鸞を崇拝し、彼らなしに仏教や信心が成りたつとは考えず、指導者とその教えがはっきり分けられていません。そのため、『歎異抄』で問題にされる異安心は、あくまで親鸞の教えに対する異安心なのです。

 科学者と科学理論に分けた場合、私たちが真理を追求する際に問題にするのは科学理論であり、それを生み出した科学者ではありません。物理現象を解明するとき、誰も物理学者の意識や思想を解明しようとはしません。科学者の話やエピソードが話題になっても、それはあくまでその科学者が生み出した理論や技術を理解し、さらに研究するための助けに過ぎません。

 では、このようなきちんとした区別が思想や宗教にあるでしょうか。哲学も相当にあやしいもので、明確な区別がないところにむしろそれらの分野の特徴があるのです。正に、知識帰命の異安心です。プラトン、カントらの哲学は独自の内容をもち、彼らの哲学の研究はそのままプラトン哲学、カント哲学と呼ばれ、哲学理論と哲学者の考えが見事に重なっています。カントの哲学の研究はカントの研究と同じことになります。ですから、かつて「哲学が専門だ」と言うと、必ずや「誰の哲学を研究しているか」と聞かれたもので、それがかつての常識でした。哲学がこの有様ですから、思想や宗教となれば、思想家や宗教家はその思想や教義と同一視されます。いや、そのような一体化こそが思想や宗教を科学知識を超えたものにしてきたのです。

 科学はその研究において、知識帰命が誤りであることを実践してきました。でも、その科学と区別するために思想や宗教が採用してきた方法は、思想家や宗教家と結びつけて思想や宗教を捉えてきた点に特徴があったのです。ですから、浄土真宗が「知識帰命の異安心」を主張することは自らの否定につながる危険をもっているのです。親鸞に帰命するのも、釈迦に帰命するのも誤りで、ひとえに阿弥陀仏や仏法に帰命すべきということになれば、浄土真宗のみならず仏教さえ否定しかねないことになります。

 このような私の主張こそ異安心だと信心深い日本人は考える筈なのですが、是非反論があれば、聞いてみたいものです。

「瞬間」と「現在」の古典性

 昨日は「現在」や「今」について考えた。ところで、「物理的な対象や性質はいつでもどこでも決定していて、それゆえ決まった値をもち、私たちがそれを確かめることができるかどうかには関係ありません」というのが古典的な物理実在論の基本主張である。そして、ガリレオが第一性質と呼んだ「物理量」は客観的な量として実数を使って表現できることになっている。そして、そこには人間の考え、意識、知覚経験などは関与しないことになっている。だから、物理世界は人間とは独立した客観的な性質からなる客観的世界ということになり、冷たくとも正確で信頼できる古典的世界像が成り立つという訳である。そして、「瞬間」や「現在」という概念もそのような世界像を支える古典的概念である。
 「正確である」ことを表現する術を知覚はもっていない。目を凝らし、耳を澄ますことしかできない。だから、知覚は経験を味わうには相応しくても、その結果を表現するには向いていない。そこで、言葉を尽くすことになるのだが、それには職人技が求められる。そこで、私たちは数学に頼ることになった。私たちは重さを感じることができるのだが、「53kg」は感じられない(つまり、私たちは53kgに相当する重さは感じることができるのだが、「53kg」は感じることができない)。53kgは正確な値だが、感覚される重さは曖昧な幅のあるもので、しかも個人差が大きい。

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 「正確さ」は感じることができない。だが、感じたものを別の表現の仕方によって正確にすることはできる。「瞬間」は本能的な感覚で、それは動物が生存するために不可欠な感覚である。瞬時に反応しないと殺される危険がある。だが、それを表現しようとすれば実数や点を使う必要があった。実数や点は「瞬間」や「現在、今」の解釈、表現として、実に見事で手際がいいのだが、私たちの本能的な感覚としての「瞬間」や「現在」を正しく解釈、表現しているかと言われるとよくわからない。とてもスマートで綺麗で、モデルをつくるには適しているのだが、私たちの実際の感覚的な「瞬間」や「今」は反応時間のように幅をもったものでなければならない。
 時間や空間は物理対象のように直接知覚することができない。それらは見たり触ったりできない。「夕方になった」と感じることができるが、夕方は知覚できない。「5時30分だ」と知覚できないが、時計を見てそれを知ることができる。時間や空間に関わる事柄は知覚できる、知覚できないという区別が実に微妙で、そのため、大抵の場合、時間と空間は知覚経験ではなく、時計や物差しを通じて、つまり数学的知識によって理解されてきた。
 古典的世界観は古典物理学が描く世界の基本枠組みを基礎にしていて、古典的な物理世界の確定性がもれなく認識できることになっている。すると、「瞬間」も「現在」もある実数や点として表現されることになり、限りなく正確な各時刻、各地点での状態がわかることになっている。そのような「瞬間」や「現在」は経験できない。特に、感覚経験は望めない。だから、古典的世界観は私たちがいない世界ということになる。一方、哲学者たちは私たちがいる世界で私たちが感じる「瞬間」や「今」を明らかにしたいと思っていて、感覚的な瞬間や今に拘泥することになる。
 私たちの「瞬間、今」は、本能的な間髪入れない反応の表現と、学習による点や実数を使った表現とがミックスしてでき上がった概念である。だが、実際のところ、どのようにミックスしているのか誰もよく知らない。ミックスなどしないで片方だけで通すのがすっきりしているのだが、生活世界での私たちは実益を優先するためミックス型を選んできた。ベルクソンハイデッガーが前者を主にして、物理学者は後者を主にして時間を考察し、したがって、瞬間や現在を考えてきた。それらの知識を受け継ぐ私たちは、瞬間や今を時には本能的、感覚的なものとして、時には点や実数で表現されるものとして、そして、ほぼ無意識に両方を含んだものとして理解し、使ってきた。
 だが、このミックスは実にいい加減で、見かけのミックスでしかないのだ。

ピラカンサスの満開の花

 木全体についた赤い実には驚くばかりなのだが、満開の花もまた見事で、これほど花をつけて重くはないのか、弱ってしまわないかと逆に気を揉んでしまう。そんなピアカンサスの和名は橘擬(たちばなもどき)、常盤山樝子(ときわさんざし)で、開花時期は5月の中、下旬。秋の「実」も目立つためか、中国名は「火棘(かきょく)」。

 花は小さい5弁の白花で、やや大きめの花序。実はやや潰れたような球形で晩秋に赤く色づく。葉は長楕円形の濃緑色で実の色とのコントラストが美しい。

 ピラカンサス南ヨーロッパ及び西アジアを原産とするバラ科ピラカンサ属の常緑樹。明治時代の中期に日本へ渡来した。花や実がサンザシに似ていること、常緑であることから「トキワサンザシ」と名づけられた。枝にはトゲが多く、防犯を兼ねた垣根に利用されることがある。

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