忘却の功罪

(1)忘却の代表となれば認知症。その認知症の中核をなす症状が忘却という記憶障害。普通の物忘れと違って、認知症の記憶障害の特徴は、「記銘力低下」、「全体記憶の障害」、「記憶の逆行性喪失(現在から過去に向けて記憶を失っていく)」である。肝心な点は「記憶になければその人にとって事実ではない」ということで、他の人には真実であっても、本人は忘れているために真実ではなく、認知症では日常的にこの忘却が起こっている。
・記銘力低下
 今見たこと、聞いたこと、話したことを直後に忘れる、つまり「憶えられない=ひどいもの忘れ」が記憶障害の最初の特徴。同じ話を何回も繰り返し話すのは、その度に忘れてしまい、毎回初めてのつもりで話し始める。
・全体記憶の障害
 普通の人は細かいことは忘れても、重要だと思うことや体験したことを忘れることはないが、認知症では出来事そのものをすっかり忘れてしまう。これが「全体記憶の障害の特徴」である。訪ねてきた人が帰った直後に、そんな人は来ていないと主張するのは、この特徴からくる症状である。認知症の人は、ある時期、異常な食欲を示すことがある。そのような過食の時期は一人分を食べても空腹感が残っていて、しかも細かい献立の内容を忘れるだけではなく、「食べたこと」自体を忘れる。
・記憶の逆行性喪失
 認知症の記憶障害の第三の特徴が「記憶の逆行性喪失」。記憶を過去にさかのぼって失っていき、最後に残った記憶の世界が本人にとって現在の世界となる。「いまから会社へ行く」と言って、背広を着てカバンを持って出掛けようとしたり、年齢を尋ねると「18歳」と真面目な顔で答えたり、数十年連れ添った配偶者の顔が分からなくなるのも昔の世界に戻ってしまったと考えれば説明がつく。
 認知症患者は、いつも世話してくれている最も身近な介護者に対しては辛辣で、時々会う人や目上の人には寛容である。また、自分にとって不利なことは一切認めず、素早く言い返してくる。しかし、言い訳の内容には明らかな誤りや矛盾があるため、「都合のよいことばかり言うずるい人」、「平気で嘘を言う人」などと評価される。さらに、正常な部分と認知症として理解すべき部分とが混在し、これは初期から末期まで通してみられる。言ったり、聞いたりしたことはすぐ忘れるが、感情はしっかり残っていて、認知症高齢者がそのとき抱いた感情は相当時間続く。また、ある一つのことに集中すると、そこから抜け出せず、周囲が説得したり、否定したりすればするほど、逆にこだわり続けるという特徴がある。さらに、認知症高齢者の老化の速度は非常に速く、認知症でない高齢者の約三倍のスピードで進行する。

(2)次は記憶喪失性貝毒の話。モンゴメリ原作の『赤毛のアン』の舞台となったカナダ東海岸プリンス・エドワード島周辺で、1987年に養殖ムラ サキイガイ(ムール貝)を食べた人たちの間に食中毒が発生した。消化器障害(悪心・嘔吐、腹痛、下痢)と神経障害(頭痛、食欲減退)が主な症状だったが、重症患者には見当識障害、記憶障害、痙攣、昏睡等が現れ、患者107人のうち4人が死亡、12人に記憶障害の後遺症が残った。死亡した4人には、主に脳内の海馬(学習・記憶に関与する部位)に神経細胞の破壊が認められた。ムラサキイガイからアミノ酸の一種である「ドウモイ酸」が検出され、これが原因物質だった。そして、記憶喪失という症状から、ドウモイ酸は「記憶喪失性貝毒」と呼ばれることになった。
 ドウモイ酸が記憶障害を引き起こすのは、その化学構造に原因があり、その一部にグルタミン酸の構造を含む。グルタミン酸は脳の中で興奮性の神経伝達物質として働いている。特に海馬では、グルタミン酸が学習・記憶の形成に重要な役割を担っている。ドウモイ酸はグルタミン酸とは違って、ヒトの体内には本来存在しない。だが、有毒化した貝を食し体内に取り込まれた場合、ドウモイ酸はグルタミン酸が作用する部位(受容体)に結合して受容体を活性化し、神経細胞を過度に興奮させる。ドウモイ酸の作用は、グルタミン酸よりもはるかに強力で、その受容体が高密度に分布している海馬の特定の領域の神経細胞を選択的に破壊する。そして、これが記憶障害を引き起こす原因となる。
 カナダでの記憶喪失性貝毒の原因生物は、当時湾内で赤潮を起こしていた珪藻類だった。麻痺性貝毒や下痢性貝毒の原因は渦鞭毛藻で、これまで珪藻から貝毒が検出された例はなかったことから、一躍脚光を浴びた。その後、数種類の他の珪藻類でもドウモイ酸が産生されることがわかり、その幾つかの種類は日本沿岸でも確認された。カナダでの事例以後、世界各地でモニタリング調査が行われ、北米、ニュージーランドなどで、イガイ、ホタテガイ、カキ、マテガイ等に同様の有毒化が報告された。

(3)これまでの二例は忘却の否定的側面だったが、次は肯定的な側面の例を挙げよう。それは忘却がもたらす効果である。運動学習プロセスにおける「軽微な忘却」には、運動指令を最適化するという予想外の効果があることがわかってきた。脳における最適化計算の実態は謎に包まれていたが、脳に生得的に備わっている忘却という機能がその役割を担っている可能性が示された。適度な休息(=忘却)を取り入れた効率的な練習スケジュールの開発など、スポーツやリハビリテーションへ応用されることが期待できる。忘却というと、記憶を阻害するものとして悪いイメージがあり、その二例を今まで述べてきた。だが、運動を学習する場合、その記憶を「少し忘れる」ことは、むしろ、運動制御の指令を最適化する効果があることが理論的に証明された。また、個々の記憶素子に軽微な忘却が起こることを仮定してニューラルネットワークモデルをつくると、霊長類の一次運動野神経細胞で観察されるのとほぼ同じ神経活動パターンを再現できることが明らかになった。これらの結果は、脳の運動学習プロセスにおける軽微な忘却が、運動指令の最適化に貢献していることを示唆している。
 私たちの歩行や動作は制御工学の観点からみると非常に洗練されている。筋活動パターンを詳しく調べた研究によれば、目的の動作を実現しうる筋活動パターンは無数に存在するにもかかわらず、その中で最も効率の良いパターンが選択されている。無数にある解の中から、一つの解を選ばなくてはならない問題(冗長性問題)は、非常に多くの筋、関節、神経細胞が関わる身体運動制御を理解する上で重要な問題。これまでは、脳はある基準に照らし合わせて最適な解を選び出すことによってこの問題を解決していると考えられてきた。だが、制御工学から出てくる評価基準は数学的に非常に複雑で、実際の脳でそんな計算がどのように行われているのかは不明で、脳がそれほど複雑な計算を行っているとは考えにくく、最適化計算の実態は謎に包まれたままだった。
 そこで出てきた仮説が、工学的な最適化計算と同等のことを脳は複雑な評価基準を計算せずに生得的な機能だけで行うことができる、というもの。肝心な点は「忘却」。忘却は、古くよりニューラルネットワークの分野で、ネットワーク性能を高める効果があることが知られている。忘却が運動制御系において有効に機能し得るかどうかを調べた結果、幾つかの条件が揃えば、ニューラルネットワークは必ず最適な状態に達し、最も効率のよい神経活動パターンを出力できるようになることが明らかになってきた。一方、忘却が全くないと、学習に伴って運動誤差は減少するものの、神経活動レベルは減少せず、最適な状態に達する前に学習が終了することがわかった。また、忘却が大き過ぎても、必要以上に神経活動レベルが低下して運動課題の遂行ができなくなることがわかった。つまり、「軽微な忘却」がある時のみ、ネットワークは最適な状態に達することができる。
 極限のパフォーマンスを目指すスポーツ選手や音楽家は、パフォーマンス低下を恐れるがあまり、過度の練習を行い、心身に様々な問題を起こすケースが目につく。だが、軽微な忘却であれば、それはむしろ効率のよい動作に導いてくれる可能性がある。

 適度に忘れることが生存に役立ち、忘れ過ぎが生存を脅かすことが上記のことからある程度はわかるのではないか。正に忘却の功罪である。「嘘も方便」のように「忘却も方便」ということか。だが、何を憶え、何を忘れるかの選択はどうも意識的にはできないようである。

ツバキ

 ツバキ(椿、海柘榴)またはヤブツバキ(藪椿、Camellia japonica)は、ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹。私は光沢のある濃い緑の葉が好きで、花は好きになれないのだが、その葉が名前の由来になっているようである。厚みのある葉の意味で「あつば木」、つややかな葉の「艶葉木(つやばき)」、光沢のある葉の「光沢木(つやき)」などで、花より葉の美しさが名前の由来とされる説が多い。その椿がようやく咲き始めた。一足先に咲いているのがサザンカ。東京の歩道樹には近年サザンカが増え、大抵は赤い花が咲いている。サザンカも見るべきは花より葉である。そのサザンカ山茶花、Camellia sasanqua)もツバキ科ツバキ属の常緑樹広葉樹。『たきび』の歌詞に登場することでもよく知られる。
 ツバキとサザンカはよく似ていて、見分けるのが厄介だが、次のような違いがある。ツバキの花は萼と雌しべだけを木に残して丸ごと落ちるが、サザンカは花びらが個々に散る。ツバキは雄しべの花糸が下半分くらいくっついているが、サザンカは花糸がくっつかない。ツバキの花は完全には平開しないが、サザンカはほぼ平開する。

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記憶の干渉を起こすもの

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  まずは復習。私たちの記憶は、情報の記銘、保持、再生の三段階からなる。加齢による物忘れは再生の機能が低下することによって起こり、覚えていることを思い出すまでに時間がかかるようになる。そのため「約束したこと」や「通帳をしまったこと」自体は覚えていて、「自分が忘れていること」には自覚がある。認知症の物忘れでは、「約束したことを覚えていない」、「通帳をしまったことを忘れる」といった、「そのこと自体」を覚えていられない。これは記銘ができなくなることによって生じる。
 学習した内容は記憶痕跡として残るが、それが減少し、消失することが「忘却(forgetting、amnesia)」。 忘却の説明には、減衰説(decay theory)、干渉説(interference theory)、手掛かり説 (cue dependent theory)、抑圧説(repression theory)などがある。
 頭の中に形成された記憶痕跡は時間が経過するとともに薄れるというのが減衰説。100 年以上前にエビングハウスは記憶が時間の経過とともに変化する過程を「忘却曲線(forgetting curve)」を使って説明した。彼の実験では、健常人を対象に、子音・母音・子音からなる「jor, nuk, lad」といった無意味な音節綴りを記憶させて、時間経過に従ってその再生率を測定し、記憶の保持と忘却の過程を研究した。その結果は、人間の記憶内容は、記銘した直後は指数関数的に減少するが、次第に緩やかな減少に転じ、一定時間が経過するとそれ以上の忘却がほとんど起こらなくなることを示していた。
 抑圧説は、精神的にショックを受けた出来事や外傷(trauma)が一時的ないし長期にわたって抑圧を与えるため、意識的に想起できない状態になることを主張する。抑圧された記憶は、本人の心理的・行動的側面にさまざまな不適応症状を生じる原因となることが報告されている。
 複数の記憶痕跡が互いに干渉し、記憶痕跡が消失して忘却するというのが干渉説(interference theory)。過去に学習した内容が新たに学習した内容の想起を妨げることが順向干渉(proactive interference)、新たに学習した内容が過去に学習した内容の想起を妨げることが逆向干渉(retroactive interference)である。

 記憶の減衰はエントロピーの増大に似て、理由は不明でも事実その通りだという意味で現象原理のようなもの。それに比べると、「干渉説」はその仕組みを色々考えることができそうである。それをもとに記憶の役割を想像してみよう。
 順向干渉は未来に向かっての干渉、逆行干渉は過去に向かっての干渉と言い換えることができる。例えば、最初に会った人の名前を「田中さん」と記憶したのに、次に会った人の名前を「中田さん」と覚えると、最初の人の名前が「中田さん」になってしまうのが「逆向干渉」、その逆に、最初に会った人の名前が頭から離れず、次に会った人の名前が「田中さん」になってしまうのが「順向干渉」。
 順向干渉は一度覚えたことが強く残り、その後の記憶に干渉し、その結果最初の記憶が忘れられない結果になる。逆行干渉はやはり一度覚えたことが強く残り、それ以前の記憶に干渉し、その結果最初の記憶が忘れられない結果になる。ここには時間の矢が歴然と存在し、記憶する事柄を現在に置くなら、未来を干渉するのが順向干渉、過去を干渉するのが逆向干渉ということになる。つまり、ある事柄が忘れられず、その後の事柄に影響を及ぼす順行干渉、ある事柄が忘れられず、それ以前の事柄に影響を及ぼす逆行干渉ということになる。
 すぐに考えられるのは、順向、逆行だけの一方通行ではなく、両行干渉が頭に浮かんでくる。強烈な出来事に遭遇し、それ以前の記憶、それ以後の出来事に多大な影響を与えることは誰にも起こりそうなことである。その出来事によって過去のことを忘れ、未来のことの学習を妨げることはむしろ当たり前のことではないのか。
 既に幼児期健忘について考えた。その原因として考えられる一つが、記憶の貯蔵に必要とされた神経ネットワークが後に発達したものに飲み込まれ、当時の記憶を思い出せない(検索の失敗)とするものだった。脳の発達と大きく関わり、生後ゆっくりと脳が発達するネズミには人と同じく幼児期健忘があるのだが、生後2,3日で脳が完全に発達してしまう早熟のモルモットには幼児期健忘がないのである。これは言語習得が逆行干渉を起こし、習得以前の記憶を忘れさせたと見ることもできる。
 ハイパーサイメシアの人は見たものすべてを記憶でき、自分の生活の中で起こったどんな些細なことでも覚えていることにも言及した。ジル・プライスは幼児期の頃のことまで思い出すことができ、しかも詳しく覚えている。彼女はあらゆる出来事や日付を驚くほど正確に覚えていた。つまり、彼女の記憶には干渉が存在しないのである。干渉がないので、すべて憶えていることになる。
 言語の習得は大きな干渉を引き起こすように思われる。当然、両行干渉が予想でき、習得以前の記憶が忘れられ、習得後の記憶もその言語に従って記憶される。つまり、記憶は言語にいつでも、どこでも支配、コントロールされることになる。最初に習得された言語は母国語と呼ばれ、その後の別の言語の習得を助けるとともに干渉もすることになる。言語程ではなくても、宗教や思想も強い両行干渉を引き起こしてきた。信仰や信念は記憶に強く干渉し、記憶を編集、改ざんする力をもっている。
 人の一生は忘れられないことによって大きく左右される。記憶が人生を左右するとは、記憶が干渉を起こすことによって大きな効果を果たすことにある。大きな影響を受けるとは、小さな影響を忘れる、些細な影響を無視することを意味している。

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アロエ

 アロエツルボラン亜科アロエ属の総称。南アフリカ共和国からアラビア半島まで広く分布し、日本には鎌倉時代に伝来したとされる。今はキダチアロエが九州、瀬戸内海、伊豆半島、房総半島などの海岸に帰化している。よく見るのはキダチアロエ、そしてアロエベラである。
 キダチアロエは観賞用、食用として栽培されてきた。「木立ち」の名の通り茎が伸びて立ち上がり、成長につれ枝は多数に分かれる。戸外でもよく育ち、冬に赤橙色の花をつける(画像)。家庭でも薬用として栽培されている。私には昭和後半の代表的な植物に思えて、妙に懐かしいのである。

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自由意思雑感

 「男心と秋の空」、「男の心と川の瀬は一夜に変わる」といった格言の「男」を「女」に取り換えても、同じように成り立つためか、今では「女」もよく使われ、「女心と秋の空」も立派に市民権を得ている。「わからぬは夏の日和と人心」とあるように、男心でも女心でも、状況に応じてよく変わるのが人の心。そもそも人の心は夏でも秋でも季節に頓着せずよく変わる。
 人の心はそれぞれの人が自ら変えるものだが、秋の空や夏の日和は気象上の要因によって変わるもので、二つの間に何の関係もない筈である。格言はこの点で哲学的とは到底言えず、人心も空も同じように変わるものだと上辺の現象だけ見て、勝手に推量したようである。さらに、心変わりは連続的に起こるのか、それとも不連続的に起こるのかは誰にもよくわからない。また、心は意識からなり、その意識が川のように流れるのだと言っても、どんな風な流れなのかこれまた誰にも見当もつかない。
 兎に角、そんな心変わりを売りにするのが人というもの。人は心の変化を脳過程の変化としてではなく、意識の変化と捉え、その変化を言葉を使って物語ってきた。そんな風に言うとついわかった気になるが、人が選挙で誰を選ぶかさえ誰にも予測できない、というのが言葉による議論の暫しの結末である。とはいえ、昨今の選挙は予測の精度が上がり、開票前にある程度わかってしまい、開票時の緊張感が乏しくなってしまった。大袈裟に意思決定などと呼ばれる人の心変わりは、それまでの信念を変更することによって起こる。その信念変更は情報操作によって引き起こされる。この種の手法は随分と進化し、心理工学と言ってもよいほどである。情報操作が働くカラクリはおよそ次のようである。
 「流行、雰囲気、状況、文脈」などと呼ばれてきたものについての情報を下敷きにして、「風が吹く、潮目が変わる」と言った変化の徴、兆候を目印に、人の信念が変わっていく。一方、それを認めない人たちは、兆候など無視してそれまでの信念を変えない。適度に論理的で、理屈を中心にする、適度に情緒的で、感情を中心にする、このような異なる心的状況の中で信念が変わる、変わらないが決まっていく。このように人の心は変えることができ、実際人の心は変わる。その変化は時には驚嘆、感嘆すべきものだが、時には落胆を引き起こす。人は自分で決めることに異議を申し立てることはないが、人が決めることに従うことには執拗に抵抗する。そして、人に自分の未来を決められることには激しく拒絶する。この伝統的な態度の背後にあるのは、個人のもつ自由意思だった。だから、私たちが自由意思をもつ限り、誰も他人の心の内には踏み込めないと思われてきた。そして、他人にわかることは決まった結果だけだと思われてきた。だが、そのような伝統的な考えは急速に変わろうとしている。信念変更のプロセスが認知科学的に解明され始めている。
 ところで、「他山の石」は『詩経-小雅・鶴鳴』の「他山の石、以て玉を攻むべし」の省略形。「よその山の粗悪な石でも砥石に利用すれば、自分の玉を磨くことができる」という意味で、他人の誤りを自分に役立てること。変える、変わるときに人は誤る。だが、変わる前に誤りはなく、変わった後にしか誤りは現れない。誤りがわかったところで、他山の石とするしかない。何とも情けない話だが、一寸先は闇であり、人のミスさえ利用しなければならないのが私たちの行為なのである。
 「変える、変わる」(「決める、決まる」)と「誤らせる、誤る」とは違うのだが、それぞれどのように違うのかは次第に見当がつき出している。認知科学は侮れないが、まだ謎は多く、それを適当に斟酌しながら、按排しながら生きているのが今の私たち。だから、私たちは選挙結果に一喜一憂しながら、それら結果を他山の石にするしかないのである。
 自由意思は存在するのか、それとも幻想に過ぎないのか。かつてエラスムスが自由意思の存在を主張すれば、ルターはその存在を否定した。その後、自由意思の存在を巡って議論が飽くことなく続いてきた。自由社会で誰もが自由意思をもち、それを十分に行使できるというのが近代以降の社会の理念の一つになってきた。自由社会とは誰もが自由意思を何の制約もなくもてる社会なのである。
 自由意思論では、自由意思をもつと信じてよいことが説明され、十分な根拠、正当性があると主張される。だが、それでもそれが幻想であることは十分可能であることは映画「マトリックス」を例に出せばわかるだろう。AIは自由意思をつくり、しかもそれは幻想でコントロール可能であるような状況を生み出すことができる。
 こうして、自由意思を巧みにつくり、それを壊すことが人工的に可能であることになり、これを利用して聖域である心に働きかけることが可能となる。
 私たちが「決める」と思っていても、実は「決まっている」のであり、それが運命に支配されているという表現に現れている。神は「自然の変化が決まる」ことを決めている。この点で、自由意思の行使は神の立場に立つことができることを意味している。だが、問題が一つある。「自由意思によって決める」ことを「論理的、因果的に決まる」ことによって説明することは瞬時にできる訳ではなく、解析の装置がないと私たち自身ではできない。ここが神と私たちの違う点である。
 私たちが何の補助装置もなく、一人で生活している場合、私たちはこれまで通りに自らの自由意思によって決め、相手については推量することしかできない。むろん、少々知識は増えていても、私たち自身が解析の装置を自前で持つことはできない。物理学や生物学の実験装置が私たちの外にあるように、解析の装置も私たちの外にあって、私たち自身とは離れている。補助装置がない場合、私たちは原点に戻るしかない。車も飛行機もなければ、私たちは自らの足に頼るしかない。それと同じように、心の解析装置がなければ、私たちは伝統的な心との付き合い方に頼るしかない。

市場の移転

 日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸ににあった魚市場が魚河岸。17世紀の初めに開設され、1935年に築地市場へ移転するまで300年以上続いた。魚河岸は日本橋地域に1656年まであった「吉原遊郭」や1842年まであった「歌舞伎小屋」とともに「一日千両」と称された江戸の繁華街だった。魚河岸は江戸が東京になってからも人々の食卓に全国の魚介類を供給していたが、1923年の関東大震災後の東京改造計画によって築地への移転が決まった。だが、日本橋を去ることに反対する人が多く、移転完了には決定から10数年を要した。
 築地市場は、中央区の築地に1935年から2018年まで83年間使われてきた公設の卸売市場である。2018年10月6日に営業を終了し、10月11日に豊洲市場が開場し、同日解体工事が始まった。
 解体工事はまだ本格化していないが、今はすっかり静かになった市場が隅田川の対岸から見える(画像)。その光景は暫しの休憩という感があり、長年の労をねぎらう気持ちと共に、寂しさも覚えるのは私だけではないだろう。二回の市場の移転はよく似た感情を人々に引き起こしたようである。移転や移動にはいつでもどこでも寂しさと嬉しさの両方が綯い交ぜになって付き纏う。

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日本橋魚市繁栄図 国安

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記憶を知れば、それを書き換えたくなる

 嫌なことは忘れ、いい思い出だけ残しておきたい。それが脳科学の進歩によって実現可能となるとしたら、あなたはどうするでしょうか。身体の病気を治すように心の病気を治すことに異を唱えなければ、記憶の書換えが治療の有力候補になってきます。

 自分の体験した出来事や過去についての記憶が抜け落ちてしまうのが記憶障害で、認知症の主要な症状の一つ。この症状は自覚のある物忘れとは違い、忘れた自覚がなく、日常生活に支障が出てきます。新しい出来事が覚えられない、覚えたはずなのにすぐに忘れてしまう、覚えていたことが思い出せない、といったことが起こります。最近のことからだんだん忘れていくという特徴があり、次第に悪化していきます。
 その記憶とは何かについてこれまで何回か考えてきました。新しい情報(経験内容)が脳に記銘、保存され、その情報が再生されることが記憶。新しい情報が重要でない場合、一時的に覚えているものの、消去されます。でも、重要な情報の場合は、一時的に保存された後に長期間保存されることになります。関心のあるものを一時的に保存する器官である海馬を「イソギンチャク」、重要な情報を頭の中に長期に保存する機能を「記憶の壺」に喩えると、認知症による記憶障害は次のように説明できます。
 人間には、目や耳がキャッチした情報の中から、関心のあるものを一時的に貯えておく器官と、重要な情報を頭の中に長期に保存する「記憶の壺」が脳の中にあると考えられます。いったん「壺」に入れば、普段は思い出さなくても、必要なときに必要な情報として取りだすことができます。認知症になると、一時的に貯えておく器官が衰えてしまい、「壺」に納めることができなくなります。新しいことを記憶できずに、直前に聞いたことさえ思い出せなくなります。病気がさらに進行すると、「記憶の壺」まで溶け始め、覚えていたはずの記憶も失われていきます。
 記憶の分類としては、長さについて短期(即時)記憶、長期(遠隔)記憶があり、内容についてエピソード(出来事)記憶、意味記憶、手続き記憶があります。短期記憶は記憶を貯蔵する時間が数十秒から1分程度と短い期間のみ残る記憶のこと。認知症になると、新しいことを覚えにくく、具体的には、今日の日付が分からない、どこに物を置いたか忘れる、何度も同じことを聞くなどの症状が見られるようになります。これが短期記憶障害です。認知症初期には比較的直近の記憶から失われていき、次第に思い出せない事が増えていきます。
 長期記憶には、記憶を貯蔵する時間が数分から数日間残る場合(近時記憶)と、数日以降発病する以前に学習した記憶が残る場合(遠隔記憶)とがあります。誰もが知っている「祝日の名前」、「自分が通った学校の名前」、「自分の職業」などについても、認知症が進行すると忘れてしまい、最終的には家族の名前や顔も忘れていきます。これが長期記憶障害です。
 学歴や職業など、自分が生活してきたことや体験したこと(エピソード)そのものを忘れてしまうのがエピソード障害。本人は体験自体が抜け落ちているので、周囲と話がかみ合わなくなります。ものや言葉の意味を忘れてしまう障害が意味障害。「あれ」とか「それ」などの表現が多くなり、意思疎通が難しくなります。
 手続き記憶は本人が繰り返し学習や練習によって身につけた技術や、無意識のうちに記憶していること。例えば、自転車に乗る、泳ぐ、ピアノを弾くなど。認知症になっても、比較的体得した記憶は残りやすいと言われています。
 こうして、認知症の進行に合わせて記憶障害の症状が悪化していくのです。

 自転車に初めて乗ることができたときの気持を、私は覚えているだろうか。初めてキスをしたときや、初めて失恋したときはどうだろう。そうした記憶と感情は、私たちの心に長い間残り、蓄積され、私たち一人ひとりを形成してくれます。一方、深刻なトラウマを経験した場合、恐ろしい記憶は人生を変えてしまうほどの精神疾患の原因ともなります。 でも、恐ろしい記憶がそれほど強烈な痛みをもたらさないとしたらどうでしょうか。人間の脳の発達に関する理解が深まりつつある現在、PTSD心的外傷後ストレス障害)やうつ病アルツハイマーといった疾患に対処するため、記憶を書き換える治療法が実現されるかも知れません。実験はまだマウスなどの動物を中心に行われている段階ですが、人間を対象とした試験を視野に入れつつあります。すると、個人の人格を形成するものの一部を変えることが許されるのかという倫理的な問題が出てきます。とはいえ、さほど遠くない未来に私たちは人間の記憶を書き換えることができるようになるでしょう。今のところ、本当にそこへ踏み込むべきかどうかは誰にもわかりません。
 一つの記憶は「記憶痕跡(エングラム)」と呼ばれます。これは特定の記憶に関係する脳組織の物理的な変化を指しています。脳のスキャンによって、記憶痕跡は脳の一つの領域に孤立しているのではなく、神経組織に広く分布するように存在していることがわかってきました。記憶は一つの特定場所にあるのではなく、網のようなものだと思われています。というのも、記憶には視覚的、聴覚的、触覚的な要素が含まれており、これらすべての領域の脳細胞から情報がもたらされる総合的なものだからです。
 現在の科学は、記憶が脳内をどのように移動しているかを追跡するところまできています。マウスの脳内で一つの記憶痕跡を形成している細胞群を操作し、誤った記憶を作りだすことに既に成功しています。この時の実験では、脳への特別な刺激によって足に電気刺激が与えられるという恐怖を、そのときにマウスがいた実際の場所ではなく、記憶の中にある別の場所と結びつけて覚えさせました。そして、ポジティブな記憶とネガティブな記憶はそれぞれ別の細胞群に保管されているのかどうか、またネガティブな記憶をポジティブな記憶で「上書き」できるかどうかが追求されました。ポジティブな楽しい記憶は、オスのマウスをメスのマウスを1時間一緒にケージの中に入れておくことによってつくられます。一方、ネガティブな記憶は、別のケージで体を固定するなどのストレスを与えることによってつくられます。マウスがそれぞれのケージで体験と刺激を関連付けて覚えたら、次はそうしたポジティブあるいはネガティブな記憶痕跡と関わる細胞群を、研究者が操作できるような手術をマウスに施したのです。この実験によってわかってきたのは、ネガティブなケージの中にいるマウスの脳を刺激してポジティブな記憶を活性化させると、マウスが以前ほど強く恐怖を感じなくなるということでした。この記憶の「書き換え」は、マウスの心的外傷を消すのに役立つのではないかと考えられています。でも、元の恐怖の記憶が完全に上書きされるのか、それとも抑制されるだけなのかはよくわかっていません。ワード文書で例えるなら、記憶を新しいドキュメントとして別に保存したのか、元の文書を上書きしたのかがわからないということです。
 マウスを使った実験は基礎的なものに過ぎませんが、これが人間の治療に利用される日はいずれやってくるでしょう。トラウマ的な記憶はポジティブな情報で書き換えることができることになると思われます。そうすれば、PTSDうつ病に苦しむ人々は、記憶を入れ替えて、痛みを伴う思い出に極端に感情的な反応をせずに済むようになる筈です。いつの日か人間の記憶を書き換えられるようになるとして、その治療を受けられるのはどんな人でしょうか。それは多額の治療費を払える人に限られるのでしょうか。子供の場合はどうなるのでしょうか。また、重要な目撃者や被害者が犯罪の記憶を持たなくなることは、司法制度にとってどのような意味をもつのでしょうか。こうした疑問は山ほど出てきます。
 神経科学の研究が進むにつれ、医療倫理の抱えている倫理的なジレンマがそのまま同じように登場するのです。記憶操作の技術そのものは善でも悪でもなく、これまでの医療技術と同じように善にも悪にも使うことができるのです。そのような状況が予想できる中で、記憶の書き換えがもつ他の技術にはない独特のものが何なのか、それもまだ今ははっきりしないのです。