同じも違うも気持ち次第:ラナンキュラスの花たち

 ラナンキュラスの花を見比べながら、それぞれの花が皆大きく異なることを際立たせようとすることと、どの花も実は同じことを見極めようとすることとが交互に登場して、妙に穏やかでない心持になる。どうもそこには人の意識と意識内容の微妙な関係があるように思えてならない。微妙な関係とは「どのように意識するか」と「何を意識するか」の違いである。それは「花の何を意識するか」と「花をどこからどのように意識するか」の違いであり、終には「現象学的還元」という厳めしい哲学用語まで想起してしまうのである。意識は志向的だと言われ、何かの意識であると言われるが、それが「何を意識するか」の問いに、還元の方が「どのように意識するか」の問いに関わっていると解説されるのだろうが、「ラナンキュラスを見る、意識する」とラナンキュラスを「どのように見る、意識する」とによって、何が見えてくるか、何が意識されるかを予備実験してみよう。

 とはいえ、これだけの条件ではわかりにくいので、より単純に設定してみよう。様々な花の中からラナンキュラスを選び出してみようというのが最初の試み。次の試みは、色と形とで見分けた時に、どのように分類できるかでクラス分けしてみようというのが次の試み(最初の4枚の画像が最初の試み、残りの4枚の画像が次の試み)。

 前者の試みの方が後者の試みより単純に見えるが、果たしてどうだろうか。

*そんな試みより、ラナンキュラスの変幻自在な花の美を楽しむ方がいいに決まっているが、そんな試みをしなくても、花の美しさを味わうことができると多くの人が思っているのだろうが、これまた謎ではないのか。

**能書きを忘れ、ラナンキュラスの多様な花姿の美を味わって一向に構わないのだが、その際の味わい方は能書きがある場合とどのように違うのだろうか。あるいは、一切の能書き、それまでの記憶なしに鑑賞ができるのだろうか。