「瞬間」と「無限小」のスケッチ

(1)瞬間

 瞬間と永遠は時間の両極端にある概念と思われ、幾何学的にはそれらを点と線で表現してきました。線は点の集まりであるにもかかわらず、点のもつ性質と線のもつ性質はまるで異なっています。古来時間は直線を辿るかのように過去から現在を通り、さらに未来に伸びていると考えられてきました。過去は記憶によって、現在は知覚によって、未来は想像によって捉えられ、世界は時間の中にあって、変化していくと思われてきました。時間の瞬間と持続は幾何学的な点と線を下敷きに捉えられてきました。でも、そのような時間概念に多くの人が昔から不満や疑念を抱きながら、曖昧な因果的な物語の中で曖昧な時間概念を使ってきました。ですから、時間概念の周りには刹那や瞬間、運命や輪廻といった概念、想像、空想等が数多く存在してきました。

 そこで、瞬間と永遠の間にあるのは何かを探ってみましょう。まずは、次のような例文を比べてみて下さい。

 

AはBである。AがBになる。Aが生きる。 Aが生じる。 Aが消える。

 

「AがBである」と断言するには定義か、見るだけで十分であるなら、それは既存の知識か瞬間的な情報だけで十分であることを示しています。「AがBである」ことを知っている、あるいは言語的にトートロジーや分析的な命題なら、いつでも「AはBである」ことから、間髪入れず、瞬時に「AはBである」となります。定義上の事柄がその通りかどうかは問うまでもないことであり、それゆえ、見ただけで瞬時にわかることです。

 でも、「AがBになる」と言うためには、Bになる前に先走って勝手にそうだと言うことはできません。ですから、見ただけで瞬時には言えないのです。でも、理論的にAからBが導出できる場合、つまり「AがBになる」ことを知っている場合は瞬時にBだと言うことができます。でも、知るためには見て瞬時にわかるのではなく、じっくり知識を手に入れる必要があります。

 「生きる」、「生じる」、「消える」はいずれも自然現象であり、その現象が起こるには一定の時間経過が必要です。つまり、瞬時に「Aが生じる」ことが真かどうかはそもそも判断できないのです。カルノーサイクル、惑星システム、代謝システム、人の一生などは、一定の時間の幅を利用しながら仕事をするシステムであり、瞬間だけ切り取っても、それが何なのかは判明しないのです。実際、上記のようなシステムは時間が経過することをうまく利用して作用し、作業し、生きるような仕事を実行しているのです。それは時間を利用した巧みな適応方法であり、それによって存続してきた仕組みであり、存在様式なのです。生物にとっては「生きる」という適応がどの生物種にも共通していることを考えれば、生物は時間の経過、時間の幅や間隔を巧みに利用して生存を維持・持続してきたのです。

 「これは本である」という場合の本は一定期間本であり、今がその期間であるなら、その期間中のどの瞬間も本のままであると考えられています。それと同じように、「これは生きている」はある期間中のどの瞬間も生きていると言えるのでしょうか(この問いに私たちはイエスと答えるのですが…)。どの瞬間の本の画像も本ですが、どの瞬間の生き物の画像も生きているのでしょうか。そう問われると、私たちは途端に自信がなくなります。本は確かに静止画像でも本ですが、生き物の静止画像は生きていると言えるのでしょうか。心配になった私たちにできることは瞬間の画像だけではなく、一定期間の動画で生きていることを確認することでしょう。むろん、手で触ったり、細かく観察してみたりしても、生き物かどうかは調べることができます。いずれにしろ、動画も観察も瞬時ではなく一定の時間を要するということです。これが肝心な点で、「これは生きている」は瞬時の現象でも事実でもなく、生きる仕組みが働いている時間を要する時間幅をもった現象、事実なのです。

 このように見てくると、瞬時に成り立っている事柄は「私は日本人である」のように定義によって言われたものであって、素粒子、原子、分子のような基本物質でさえその同定に観測機器を使う場合には、時間間隔が必要であり、首尾よく定義がなされた後に瞬時の原子も存在可能になるのです。システムによって存在している対象となれば、そのシステムの働きが重要となり、働くのに必要な時間は幅がなければならないことになります。

 時間の幅を使って決められ、特徴づけられた対象の存在は、その後の理論的な定義によって瞬時にも存在できるようになります。これが巧みな点で、理論化は時間についてもなされます。つまり、理論的な瞬時の存在が仮定されることによって、対象が瞬時に存在することも仮定されるのです。

 このような主張はかつてのベルクソンを彷彿とさせます。彼は瞬間を否定し、「持続」を持ち出し、それによって生命をロマン主義的に賛美し、物理化学が見失ったものに光りを当てたと言われるのですが、彼の「持続」は、今風に言えばシステムをもつ対象は瞬時の同定はできず、持続する中でこそその真の姿を捉えることができるという主張の鍵になった概念でした。「生きる」ことは持続の中で捉えてこそ理解できるのであり、点からなる線として考えられた時間によっては捉えることができないと彼は直観したのです。

 ベルクソンの直感的な熱狂を冷めた眼で見るなら、時間を巧みに使った適応が時間の幅の利用にあったということであり、それが進化を創造的なものにした基本的な工夫だったのです。時間を利用するとは、時間の幅を単位にした反復システムの創造であり、それがいずれも直線的な時間概念の仮定と相反するというのがベルクソンの見立てでした。

 ベルクソンの主張に哲学的なロマンを感じる人が相当いるのはわかりますが、点と線や瞬間や時間については反主流の考えであるのも明らかです。オーソドックスな立場は点と線、瞬間と時間を対立するものではなく、一方から他方を導き出すというものです。その試みの過去の例を次に見てみましょう。

(2)無限小(infinitesimal)

 限りなく小さな時間経過が瞬間なのでしょうか。つまり、瞬間は無限に小さな時間間隔なのでしょうか。そこで、dを無限に小さい量、つまり無限小としましょう。その時、dとは正確に何なのでしょうか。任意のxに対して、x+d = xで、0と同じように無視できるが、0ではない最小の数ということになってはいますが、何とも曖昧で、よくわからない、魔訶不可思議な量です。このdは「無限小」と呼ばれてきました。現在ではその曖昧さからコーシーによる「極限(limit)」概念にとってかわられています。ですから、学校の教科書には「無限小」なる概念は登場しません。でも、ニュートン、ライップニッツ、そして、あのオイラーも無限小概念を使って微分を捉え、計算されていました。無限小に関する過去の哲学者、数学者の言明を列挙しておきましょう。表現は多彩でも、そこに無限小のもつ明晰でないものを感じ取ることができるのではないでしょうか。

Leibniz :無限小は有用な虚構に過ぎない。

・Newton :量が消失する究極の比は確かに無限小の量の比ではない。限りなく消失する量の比が常に近づいていく極限である。無限小は実無限ではなく、可能無限である。

・Berkeley :微積分は矛盾している(*)。

・Cauchy、Weierstrauss:彼らは無限小を使わないで、極限の概念に基づき厳格な基礎を与える。極限とは潜在的な無限、可能無限であり、実無限ではない。

*バークリーは「無限小」概念が矛盾を含むと考え、次の実に長いタイトルの本でそれを使ったニュートンを批判した。

The Analyst; or, A Discourse addressed to an Infidel mathematician. Wherein it is examined whether the Object, Principles, and Inferences of the modern Analysis are more distinctly conceived, or more evidently deduced, than Religious Mysteries and Points of Faith.

**コーシーによる極限値の現在の定義は次のように表現できます。

「どんな正の数εをとっても、ある自然数Nが存在して、n>Nであれば、|a(n) - α| < εとなるとき、数列a(n)はαに収束し、αは数列a(n)の極限値であると定義する。」