ベルクソンと対話者の噛み合わない議論

ベルクソン
 私たちの意識がさまざまに変化しながら継起していく有り様が「純粋持続」であり、とそれこそが人が生きている証だと私は考えます。「純粋持続」として私たちの意識は音楽のメロディーのように流れています。それは、リズミカルで有機的に一体化していて、一つ、二つと数えられる「もの」のような明確な区切りをもつものではありません。つまり、私たちの生命の核にある「純粋持続」は、数えられる「量」ではなく、「運動」も「時間」も途切れずに生じる「持続」であり、区切って数えることのできる物質的な「量」ではないのです。
<対話者>
 運動も時間も自然がもっているものですが、私たちは自然の中のものを言葉を使って表現してきました。運動と「運動」という言葉はまるで異なるものですが、「運動」によって運動を指示するというのが私たちの約定です。「運動」が名詞であったり、「運動量」と密接に結びついていることは、運動とは独立した言語や概念の事柄です。運動が持続であることと「運動」を数学的に表現することは混同せずに使い分けることができますし、それを私たちは遵守してきたはずです。
ベルクソン
 生活世界の事物は、私たちの意識の外側に実在し、大抵は数えることができます。でも、数えられるものと数えられないものという本質的な区別がいつしか混同されて、喜怒哀楽や努力といった意識状態や感覚が、数値化されて表現されることは珍しくありません。このような混同の結果、意識状態も、外部の事物と同じように「量」で測ることができるもののようにみなされ、意識の事物化、数量化が起こるのです。こうしたことが繰り返されるうちに、本来連続した持続である運動や時間までが、空間のなかの事物と同じように、分割でき、数えることのできる量として扱われるようになっていくのです。
<対話者>
 意識が主役になっていますが、意識は「何かの意識」であり、志向的なものです。その意識の内容は常識的には意識の外の外部世界の対象や出来事です。対象や出来事のイメージや画像が表象と呼ばれ、意識の基本的な要素と見做されてきました。デカルトはこの表象は心の内部にある画像、イメージのようなものと考え、表象内容は意識の中にあるという内在主義を主張しました。つまり、デカルトにとっては、表象は心の中の劇場のシーンのようなものなのです。ですから、哲学の伝統の中では表象は意識内部のものでしたが、20世紀の外在主義は表象は外部世界にあるものについての表象だと主張します。同じ表象でも心(脳)の中にあるか否かで意見が分かれる訳です。
 意識として内在するもの、例えば個々の記憶や期待は現在外在していませんから、それらが真か偽か判断するには知覚以外のものが必要になります。外在した対象の記録や予測、つまりは情報や知識ということになるでしょう。この情報や知識の大半は言語で表現されますから、数値化、数学化されたものになります。
ベルクソン
 物理学者や天文学者は、運動や時間を計測可能な断片に置き換え、運動の速度を時間によって測ります。運動の速度を計測するとき、運動体が位置を変えていく移動は、通過された空間、つまり軌跡と呼ばれる線分に還元されます。速度は、その線分を時間によって分割して測定します。でも、分割できるのは物体であって、ある地点から別の地点への移動である「運動」そのものは、途切れのない変化ですから、本来は分割できないはずです。つまり、科学は時間と運動からその本質的要素である持続を除外することによって取り扱うしかないのです。
<対話者>
 意識の流れが持続であり、物理学や天文学はそれを除外することによってしか時間や運動を扱うことができないという主張ですが、科学者にとって関心があるのは意識の流れではなく、意識内容、つまりは表象内容がもつ時間や運動なのです。物理学者は自らの意識の流れではなく、意識内容の流れを問題にします。意識の流れを問題にするのは心理学者ですが、その心理学者が第一に行うのは意識の流れがどのような脳過程によって実現されているかであって、流れの私的分析ではないのです。
ベルクソン
 代数は、持続のある瞬間において得られた結果や、空間の中にある運動体がとる位置をあらわすことはできても、持続そのもの、運動そのものをあらわすことはできません。……それは、持続と運動とが心的総合であって事物ではないからです(『時間と自由』)。
<対話者>
 言葉によって私自身を表すことができないのが当たり前のように、代数は持続そのものをあらわすことなどできません。持続があるとすれば、それを部分的に表す装置の一つが代数システムなのです。
ベルクソン
 私たちの意識の中に生まれる感覚や好みといったものも、それを命名すると、物として表れるようになります。私たちの「個人的意識のもつデリケートでとらえがたい印象」は、「はっきりと定まった輪郭をもった言葉、人類のもつ印象のうちの安定していて、共通的で、したがって非人格的なものを貯えておく言葉」によって、押しつぶされるか、蔽いかくされてしまいます。かけがえのない一回だけの意識が、公的な言葉で表現されたとたん、手垢のついた類型的な共通理解に堕してしまうのです。
<対話者>
 実際は、意識など脆く、曖昧としているため、人々は明晰判明な言明によって意識内容をはっきりと捉えようとしてきたのではないでしょうか。私的な言語がないことが意識の持続を表現できない理由と言われるのですが、私的な言語があったなら、意識の流れは通訳不可能な謎として残ったままになってしまいます。確かに、言語そのものへの根本的な反省を説くことに共感する人は少なくないでしょう。言語は、真実に迫る手段とはなりえず、むしろ個人的意識のもつデリケートな印象を隠蔽してしまう装置だと考える人がいると思います。意識は本質的に私的なものであり、公的な言語によっては的確に表現できないとしても、私たちには直観能力はなく、言語能力しかありません。これは感情や情緒についても同じで、感情や情緒が持続している時間を瞬間に分割し、さらに時間を空間化するやり方でとらえようとすれば、生き生きした感情や情緒から生気が失われてしまうという主張にも同じように答えることができます。
ベルクソン
 言葉が降格させた私たちの感情や観念を非個人的な領域から取り返し、多くの細部を併存させながら元の生き生きした個性を取り戻させるためには、どうしたらいいのでしょう。それらの感情や観念の本来の生きた個性を、多数の細部の描写を並置することによって表わそうと試みるべきです。でも、結局は、心に感じていることを完全に翻訳することに失敗することになるでしょう。思考は言語に対して通約不可能なものとして止まるのです。
<対話者>
 思考と意識は違います。思考こそ言語を中核にしたもので、印象をもつ、意識することとは違い、思考は言語によってこそ表現されるのです。
ベルクソン
 私は人間の言葉への根源的な批判者です。それをゼノンのパラドクスの「アキレスと亀」を通じて示しました。「アキレスと亀」は、前を行く亀の遅々とした歩みを駿足のアキレスが後ろから追いかけても、決してアキレスは亀に追いつけない、というものです。なぜなら、地点T をスタートした亀の後方からアキレスが追いかけても、アキレスがTに着いたときには亀は少し先のT1に達している。次にアキレスがT1に達したときには亀はT2 に…と同じことが無限に繰り返されることになるから、アキレスは決して亀に追いつくことはできないからです。このようなゼノンの、運動を細分化して分析する「運動の不可能性」の議論に対して、古来、多くの哲学者や数学者が論破しようと挑みましたが、いずれも不成功に終わりました。
 ゼノンのパラドクスは本来分割できない「運動」を分割できるものとして構成されていて、それが根本的な誤りなのです。ゼノンは、運動を運動が行なわれた空間の上に残された軌跡、つまり線分と等値とみなし、その線分を切り刻むことによってパラドクスを起こしました。でも、運動とその抽象化された線分とを同一視して微分化しても運動そのものを捉えたことにはなりません。ゼノンのパラドクスのような認識上の倒錯は「知性」の罪です。知性によるそのような分析的思考を退け、本能に近い「直観」による認識が重要で、「持続」こそが、人間実在の真の姿なのです。
<対話者>
 言語レベルで生じるのがゼノンのパラドクスであり、「運動」と運動体が通過した「空間」との混同からエレア学派の詭弁が生じたのです。二つの点を分けている間隔が無限に分割可能であり、そして「運動」が間隔そのものの諸部分と同じような諸部分から合成されているとすれば、その間隔は越えられないに決まっていると言われるのですが、その理由は堂々巡りに過ぎません。現実の世界では、アキレスが亀に追いつけないなどということはあり得ないことです。ゼノンの詭弁は、運動という分割することのできない「行為」を、分割できる「空間」に置き換えたことに由来する、という言い訳は、「分割できないものを分割したから」というだけです。これでは持続する物理世界を数学的なモデルを使って表現することはどのような意義をもつのかまるでわからないことになってしまいます。教室で運動を調べようとする際、分割して運動を調べるという通常のやり方は運動の本質である持続を否定することになってしまいます。子供にリンゴの落下を教えようとする場合、落下運動は分割不可能だと言うことはどのような意味をもつのでしょうか。さらに、少々細かく、限りなく小さな持続、持続の極限、無限小の持続といった概念は根本的に的外れの概念となるのでしょうか。
 持続する自然の意識が、朦朧とした自然、意識の中の自然、印象としての自然であるとするなら、明晰な自然、意識の外の自然、事実としての自然を私たちは知りたくなるのではないでしょうか。言葉を否定し、外部世界の事物を否定し、意識だけを頼りにして何がわかるのか、わかったものをどのように他人に伝えるのか、私にはよくわかりません。純粋持続の直観は結局自己満足に終わるしかないように思えるのです。実際、数学や言語の助けを借りずに、純粋持続を直観的に把握することによって何がわかり、何がわからないのかまるでわからないのです。