永代橋と清洲橋、そして勝鬨橋

 国は関東大震災からの帝都復興に力を入れます。内務大臣だった後藤新平は強いリーダーシップを発揮し、帝都復興院の中心に若い専門家たちを抜擢しました。帝都復興のための橋梁設計の特徴はその多様性にあり、隅田川六大橋(相生橋永代橋清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)はすべて異なる形式の橋です。それは西洋の物真似でない、日本独自のデザインに基づくものでした。

 復興局は115の橋を架けましたが、隅田川六大橋に使われた予算は全体の約3分の1。そのうち半分ほどが永代橋清洲橋に用いられたのです。男性的な永代橋に対して、清洲橋は繊細で女性的ですが、ケルンの吊橋をモデルにしています。また、清洲橋永代橋をペアの橋デザインにすることも意図されていました(確かに、二つの橋の一方を逆さにすると、他方の橋の形になります)。「帝都東京の門」と呼ばれた永代橋に対して、「震災復興の華」が清洲橋です。時々墨田川テラスを散歩するのですが、両岸の建物は見ずに、永代橋清洲橋の二つの橋だけを眺め比べるのに飽きることはありません。

 隅田川に架かるもう一つの有名な橋が勝鬨橋。昔の隅田川はとにかく汚く、川辺などなく、川と街は堤防で隔てられたままでした。田舎出の私には隅田川は大きなどぶ川でしかありませんでした。ですから、当然のように川に架かる橋にも私の関心は向きませんでした。そんな中で、唯一記憶に残る橋が勝鬨橋。月島で家庭教師を頼まれ、半年ほど銀座から勝鬨橋を渡って月島に通ったのですが、汚い川に比べ、橋は立派だったのを憶えています。勝鬨橋は可動橋でしたが、今は開閉しません。橋は1940年に完成。2007年、永代橋清洲橋勝鬨橋の三つの橋は国の重要文化財(建造物)に指定されました。

永代橋

清洲橋

勝鬨橋