アメジストセージの花(3):A君の意見

 「これは神ではない」、「「これはパイプではない」はパイプではない」等々の非日常的な文は一体どのような意味で真、あるいは偽なのか。このような問いは一見とても哲学的に響くのだが、実はそのほとんどが頓智の問題か禅問答に過ぎないというのがA君の実感。

 マグリット《イメージの裏切り》の「これはパイプではない」の「これは」は一体何を指すのか。描かれたパイプを指すという特段の理由はどこにもない。そんなことよりなにより、フランス語を知らない人には「Ceci n’est pas une pipe(これはパイプでない)」というアルファベットの系列が何を意味しているかわからない。言葉は本当に厄介であるというのがA君の本音。

 A君には「これはアメジストセージの花ではない」はとても健全な言明に思える。「花に見えるが、実は萼である」のがアメジストセージについての科学的な知識であるのに対し、「これはパイプではない」は哲学的な言明で、それゆえにこの言明は真偽が決定されなくても大きな支障は出ない。一方、「これはアメジストセージの花ではない」は真偽とその理由が大いに気になる言明である。経験的なデータを知識によって説明することはA君にとってはとても安心できる知的探求の手続きに思えるのである。

 ところで、フーコーマグリットの絵について何を論じていたのだろうか。15世紀から20世紀に至るまで、西欧絵画の世界は二つの原理に分離されてきた、とフーコーは考える。第一の原理は「類似によって表象を示すものと差異を通じて語るものとの分離」である。フーコーは、マグリットの「これはパイプではない」の分析を通じて、この分離を示した。「これはパイプではない」という作品では、まず、一本のパイプの図像が描かれ、その下に「これはパイプではない」と書かれている。この場合、パイプの図像が類似によって人の目に示され、「パイプ」という単語が差異を通じて私たちに語る。文字はある文字と別のある文字とが似ていないことに意味がある。文字それ自体がなにかに似ていることに意味があるのではなく、違うということがわかればそれで充分。それに対して、図像はあるものにどれだけ似ているかという点が重要である。

 ヨーロッパの絵画ではこの二つの原理は分けられていた。絵画の中からは念入りに言語的側面は排除され、言語的な側面はタイトルや、説明、人物の名前などという形式で示されることになる。そして、それらは二つに分けられ、その間になんらかの関係が保たれることになる。これが第一の原理、造形的側面と言語的側面との分離であり、今風にはアナログとディジタルの原理である。

 ここで、アナログ部分を観測装置によってより精緻にすること、そしてディジタル部分を数学的な言語によって精確にすること、これらが絵画的側面と言語的側面に対応していて、そのようにフーコーの分析を常識的に読み直す方が適切だというのがA君の考えである。モデル、翻訳は二つの要素の間の橋渡しで、マグリットの正しい翻訳は「上に描かれたパイプは本物のパイプではない」である。

 絵画的なもの(=類似によるもの)と言語的なもの(=差異によるもの)とが、画面の上ではない架空の場所で出会うようにすることが第二の原理。フーコーは、この「これはパイプではない」の画像は、ある操作の後で存在していると語っている。造形と言語記号の融合を作るという操作の後で、その痕跡を残さないように消してしまう。A君は二つの融合がモデルとその験証による知識だと考えている。類似と差異の違いを強調するのではなく、両者が補完し合うことによって、問いが有意義になり、あくまでその問いの答えを出して、知識を手に入れることが重要で、それが科学活動につながるというのがA君の結論である。