ユキツバキの周辺(1)

 ツバキは『万葉集』に九首しか載っていないが、室町時代中期から茶の湯の文化に不可欠な花となってきた。茶花の主役はツバキで、江戸時代もツバキブームは続いた。18世紀始めにツバキがヨーロッパに渡り、「日本のバラ」とよばれ、アレクサンドル・デュマ・フィスは小説『椿姫(La Dame aux Camellias)』を発表、これをもとにヴェルディはオペラ「椿姫」を作曲。ツバキの学名はCamellia。日本に自生するツバキ属は、ヤブツバキ、ヤクシマツバキ、ユキツバキ、サザンカ、ヒメサザンカで、世界のツバキ品種のうち3分の2以上が日本のツバキ属がもとになっている。

 普通に「ツバキ」と言えば、植物分類学的にはツバキ科ツバキ属のヤブツバキのこと。「ツバキ」の語源はたくさんあり、その光沢から「艶葉木」と呼ばれ、転じてツバキになったというのがその一つ。「ツバキ」の漢字は中国では「茶花」で、日本の「椿」は当て字。ヤブツバキは本州の青森から太平洋側の海岸に近い地域の山地と、四国、九州の山地、日本海秋田県男鹿半島以南の海岸に近い山地に分布。ユキツバキは日本海側の福井県秋田県田沢湖付近までの海抜300m~1300mの山地に自生し、ヤブツバキの変種とする学説もあるが、生態、樹形などに大きな違いがあり、独立の種とする学説が優勢(後述)。

 ユキツバキはヤブツバキより高所に生えるのに寒さに弱く、小苗の間は夏と冬の乾燥を嫌う。ヤブツバキと比べ、挿し木の発根性がよく、強い刈り込みに耐え、花付きがよいなど、ヤブツバキと大きな違いが見られる。ユキツバキとヤブツバキの自然交雑による中間型のツバキがあり、この交雑種がユキバタツバキ。花は濃紅、紅、桃、淡桃、白など変化が多く、一重咲きの中輪で、花形は変化に富んでいます。

 そこで、ユキツバキ系の「オトメツバキ(乙女椿)」について考えてみよう。オトメツバキはよく知られたユキツバキの園芸品種。ユキツバキがヤブツバキと異なることがわかり、ユキツバキが「発見」されたのは何と戦後の1947年と言われているが、それまで存在が知られていなかった訳ではない。それどころか、オトメツバキは江戸時代から栽培されてきた。丈夫で太平洋側の地域でも栽培しやすく、挿し木も容易。花色はピンク。開花は3〜4月だが、12月にも花をつける。北陸地方によく似た品種が多く、江戸時代末期に作出されたとされ、『本草図譜』(1829)に載っている。また、1911年(明治44年)に清野主がアメリカに紹介している。

 ところが、サザンカにもオトメがあり、サザンカ「オトメ」はツバキ科ツバキ属のサザンカの園芸品種。花色はピンクで、千重咲き、中輪、11月から開花する早咲き、カンツバキ群に属する品種となれば、上記のオトメツバキと瓜二つの花を咲かせる。

 さて、サザンカは日本が原産の一つのツバキ科ツバキ属の常緑樹。サザンカは園芸品種が豊富で300種類以上もあるが、それらはサザンカ群、カンツバキ群、ハルサザンカ群に分けられる。「山茶花」という表記で日本の文献に最初に現れるのは、室町時代の『尺素往来(せきそおうらい)』。それまでサザンカとツバキははっきり区別されていなかったようで、植栽の歴史もよくわかっていない。江戸中期頃になると栽培が盛んになり、伊藤三之丞著『花壇地錦抄(かだんちきんしょう)』には、36品種が解説されている。この頃から盛んに品種改良が行われ、サザンカは元禄三年に長崎に来航したドイツ人医師ケンペルによって初めて海外に紹介された。

 サザンカは日本の固有種で、四国の南西部と九州の全域、壱岐島に分布。さらに、奄美大島~沖縄~西表島までの島々に、サザンカとよく似たオキナワサザンカが分布している。サザンカの花は白色で、まれにピンクのものもある一重咲きで、平に開く小、中輪花。花期は10月下~12月の頃で、花には特有の微香がある。葉は小型で上下面の主脈、葉脈、若枝には細毛がある。また、ヒメサザンカ沖縄県奄美大島の山地に自生する固有種。

 ユキツバキは新潟県の木、加茂市の花。ユキツバキは日本海側だけに分布し、加茂山にはユキツバキのほかヤブツバキもあり、その中間型も見られる。雪に埋もれる地表面は温度が一定で、マイナスにはならず、植物の保護に役立っている。地表の寒風にさらされない特殊な環境に適応した形態を持つようになってきたものが幾つかある。ユキツバキもその一つで、ヤブツバキのように立ち上がらず、雪圧に適応し、幹を横臥させ、横への広がりを見せる特異な形態をもっている。

 新潟では雪の少ない海岸平野部にヤブツバキ、雪の多い山岳地帯にユキツバキ、この中間地域には中間形のユキバタツバキが分布し、生育環境の違いが棲み分けを生み出している。ユキツバキの花はサザンカのように平開し、雄しべは筒状にならず、基部まで分離し、花糸は黄色、葉は葉柄が短く、その両側に細かい毛が生え、葉脈も先端まではっきり見え、葉緑のきざみが鋭い。ヤブツバキの花は花ごと落下するが、ユキツバキは違う。

 加茂市では昭和42(1967)年から加茂山公園を「ユキツバキ日本一の群生地」として、雪椿祭りを開催してきた。地に伏し、雪に覆われて冬を越すことは、豪雪地域に生きるユキツバキが身につけた適応であり、『牧野植物図鑑』には「ハイツバキ」の別名が載っている。『こしじ水と緑の会』(29、2013)に荻野誠作「丸山忠次郎先生と和名ユキツバキの名称の経緯について」が掲載されている(詳しくは後述の高橋登「想いは「越後の雪椿」-「雪椿」ユキツバキの発見・命名秘話」参照)。1947年に本田正次が岩手県の猿岩で発見したサルイワツバキ(猿岩ツバキ)を新種のツバキとして論文を発表するが、その時には、既に40年前に和名「ユキツバキ」は丸山忠次郎によって牧野富太郎から命名してもらっていたというのがユキツバキの名称の経緯のようである。この辺の経緯については、次の文献に父から語り継がれた「雪椿」発見にまつわる話として、まとめられている。

高橋登「想いは「越後の雪椿」-「雪椿」ユキツバキの発見・命名秘話」、『新潟縣人』、2021、9月号、No.805、6-7。

高橋登「想いは「越後の雪椿」-「雪椿」ユキツバキの発見・命名秘話」II、『新潟縣人』、2021、10月号、No.806、6。

(Webでも閲覧可能)

新潟大学元教授の石沢進の「ユキツバキの呼び名」によれば、赤城源三郎・古澤達男が「にいがた歴史散歩」の中で、丸山忠次郎が麒麟山で変わったツバキを見つけ、東大の牧野富太郎に送り、「ユキツバキ」と命名されたことを記したことに言及している。