祖父の「雪女」

 今年のように雪が多いと、雪女伝説を思い出す人が多いのではないか。雪に埋もれた家で、炬燵に入り、小泉八雲の「雪女」を読みながら、中学生のA君は祖父の奇妙な解説に不思議な気分になっていた。祖父がへそ曲がりであることは小さいころから知っていたので、別に驚くことではないのだが、「雪女」の祖父版の皮肉な解説に惹きつけられたのである。そこで祖父の苦言の骨子をA君に語ってもらおう。

 まず、「雪女」の話は「論理的に理不尽」と言うのが祖父の最初の苦言。雪女は巳之吉(みのきち)に「今夜見たことを誰かに話したら…あなたを殺す」と言うのだが、数年後に己之吉が打ち明ける話に対して、「あれは私、私、私だったのです!あれが雪でした!そして、あの時、それを一言でも誰かに話したら、あなたを殺すと言いました!」と妻となった雪は叫ぶ。だが、己之吉が話したのは雪女自身、つまり「お雪さん」であり、本人に話しているだけのことだから、誰かに秘密を洩らしたのではなく、本人に話しただけのこと。本人に対して同じことを繰り返しただけだから、己之吉は誰か別の人に話したのではない。それゆえ、雪女が言っているのは論理的に理不尽なこと。これが祖父の言い分で、一見成程と思わせる。むろん、「誰であれ、一度口に出したら、殺されなければならない」と雪女の言葉を解釈するなら、雪女の主張は理不尽ではなくなる。つまり、雪女の言い分は解釈次第で真偽が変わる、というのが論理的な結論。兎に角、これが祖父の苦言的な解釈。

 「雪女」には主人公の雪女の都合しか書かれておらず、自分の都合優先の自己中心主義の話で、人間臭いエゴイズムが描かれている。これが祖父の強烈な解釈で、祖父の人間性さえ垣間見ることができそうである。老人で、既に男の魅力を失った茂作(もさく)を殺し、若い己之吉だけを自分の都合で助け、終には己之吉を騙して結婚するという雪女の行為は反倫理的で、しかも極めて人間的な行為に見える。となると、愛欲がエゴイスティックなものだと諭すのが「雪女」の意義だと解釈し直すのが近代的な解釈になりそうだが、それこそ大いなる誤りだというのが次の祖父の苦言。妖怪や悪魔は倫理を超越していて、それが超自然の神髄だというのが祖父の意見。

 雪女は人の性そのものを表現していて、嫁としての模範的振舞いもカモフラージュにしか過ぎず、あまりに人間的な雪女は人間の本性を表現する以外の何物でもない。それゆえ、「雪女」は罪深い人間の本性を「お雪」を通じて表現した物語である。こんな考えは全くの的外れというのが祖父の結論。

 このようなことを祖父から吹き込まれ、A君はいつも通りの皮肉屋の祖父の考えそうなことだと思いながら、それがもつ妙な説得力にも感心した。小泉八雲が「雪女」で何を述べたかったのか、祖父の挑発的な刺激がなければ考えもしなかったことである。確かに八雲は「雪女」のなかで教訓めいたものは何も述べていない。彼は「雪女」で何を表現し、主張したかったのか、そして、その元となる雪女伝説が一体何を述べているのか、A君には謎がさらに増えたのである。

 そこで、A君は「耳なし芳一」についても、祖父の意見を聞こうと思った。