「知る」と「信じる」の違い:融合と棲み分けのスケッチ

 多様な知り方、異なる知り方があり、同じものを違う風に知ることが許され、実際にそれが可能であり、さらに異なる知り方を統合することもできます。でも、多様な信じ方、異なる信じ方となると、同じ事柄を違う風に信じることが可能かどうかさえよくわかりません。私が神を信じる際の信じ方とあなたが神を信じる際の信じ方が同じか否か、いくら追及しても誰にもよくわからないのです。でも、物理学の法則や統計学の知識について、私とあなたの知り方に違いがあるかどうかはテストしてみれば容易にわかります。

 「知る」と「信じる」の決定的な違いをこのようなところに見出すのはとても自然なことに思われます。多様な知り方と一様な信じ方は知識と信念の違いとして考えられてきました。私たちは多くの信念を持ちながら生活しています。信念の多くは比較不可能で、それゆえ絶対的、孤立的なものです。伝承や伝統といった信念は頑固で、他の信念と折り合いのつくものではありません。

 科学と宗教が知識と信念のこれまでの代表例であり、具体例です。伝統的な信念の中の多神教や個々の生活信念は緩やかで、大雑把ものが多いようです。それに対して絶対的なのが一神教の信念であり、その代表がキリスト教イスラム教です。神を知る知り方は複数あっても、神を信じる信じ方は一つだけで、他の信じ方を認めないのが一神教です。神の数は一つだけではないだけでなく、他の信じ方も認めないのです。

 多様性を認め、相互に助け合うために知識はとても有効ですが、信念、特に信仰は他を排除するという意味で、有効どころか害を及ぼすものでもあります。同じ信念、信仰をもつ集団にとってそれは極めて有効でも、別の信念、信仰をもつ集団との生活は相容れず、ほぼ不可能ということになってしまいます。では、互いに相手を認める仕方にどのような工夫が必要なのでしょうか。相手と共有するのは社会構造の基本部分だけで、他は共有しないという原始的方法がこれまで取られてきました。

 様々な「知る」があり、結果である知識は統合、融合され、より深く、広い知識として命式化され、人類の共有財産になっていきます。独占、専用化などが起きても、それがわかるようになっています。でも、「信じる」は棲み分けによって、統合されることがなく、互いに相容れない主張のままです。そのため、生物進化の中の棲み分けに似て、絶滅が始終起こることになります。異なる種が競争して、一方が他方を駆逐するようにふるまうのが信念、信仰の世界であり、それは生存闘争の生物社会に似ています。ところが、知識の世界は種の境界がなく、優れたものが他を総合する仕方で知識の一般化が起きるのです。

 このような変化の違いを「棲み分けと絶滅」、「融合と持続」と呼んでもいいのではないでしょうか。とはいえ、二つは水と油の関係にあるのではなく、塩水と真水の違いといったもので、程度の違いなのだとみることもできるのです。