道義的責任

 前夜祭をめぐる問題で不起訴処分となった安倍晋三前首相は、それによって法的責任はなくなったと考え、「今般の事態を招いた私の政治責任は極めて重いと自覚している」、「私が知らない中で行われていたこととはいえ、道義的責任を痛感している」と何度か述べている。ここに登場する三つの責任の関係は曖昧で、何が重要かは法的、政治的、道義的の順であると多くの政治家には受け取られているようである。

 中国に禅を伝えた達磨が傲慢な武帝と問答し、仏教に帰依する武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏教最高の真理は何か)」と尋ね、達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして聖なるものなし)」と応じ、そう答えるのは誰かと問う武帝に、達磨は「不識(ふしき)(知らない)」と答える(『碧巌録』第一則)。この禅の公案の「第一義」を「人生の第一義」と解釈し直したのが夏目漱石の「第一義」。漱石は「何の第一義」かを「人生の第一義」と定め、人生におけるもっとも重要な真理、つまり人生の第一義は「道義に裏打ちされた生き方」という答えを『虞美人草』で描いてみせた。漱石に従えば、人生で最も重要なのは道義的な生き方であり、それゆえ、法的、政治的責任より道義的責任がより重要だということになる。

 多くの政治家の責任の順序と漱石のそれは明らかに違っている。それぞれの責任に重さの違いがあるのか否かも含め、じっくり考えてみる必要があるだろう。