優柔不断

 私たちが生活する世界では判断できない事態がたくさんある。判断できない状態があれば、そのままにすることは「優柔不断」だと非難され、誰も優柔不断になれなどとは言わない。だから、優柔不断の人は嫌われる。判断する、しないが決まらずに宙ぶらりんになっている状態は良くない状態で、そこから一刻も早く脱することが求められてきた。だが、よく聞かれる「判断中止(エポケー)」は、敢えて判断せずに対処するということである。時にはその宙ぶらりんが有効だという意味も含まれている。エポケーは、本来の意味で「停止、中止、中断」を意味し、哲学でもこの語は様々な意味で使われてきた。懐疑論では、エポケーは「suspension of judgment」、つまり「判断を留保すること」を意味している。もし真理がわからなかったり、わかりにくかったりするなら、誤った判断をする可能性が高くなるから、判断を留保しようという訳である。
 この優柔不断を逆手にとったような哲学の一つが現象学。では、それをフッサールはどのように利用したか知りたくなる。フッサール現象学では、エポケーは世界に関する事実命題を一括して「カッコに入れる」ことである。但し、これは世界の実在を疑うという意味ではなく、世界の現象を純粋な現れとし、その実在については断言しないということ。エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩、まずは事実や実在について優柔不断になって、カッコに入れるということである。そして、次の段階が「現象学的還元」。
 現象学的還元は文字通り、「現象学的に元へ還る」こと。例えば、物が目の前にあるとしても、「物を見ているという意識が働いている」と「意識の働きの元へ還る」わけである。「元へ還る」には「働き」そのものへと関心を向け、全てが起こっている働きの現場(超越論的主観)を直視し、それ以外の「構成された、蓄積された概念」を全て判断中止(エポケー)する。すると、全ての事態はこの現場にあるということがわかってくる。
 「世界」も「事物」も「他者」も、そして「私」も「私の存在」も、全て「…についての意識」であり「私の意識の働きによる現れ」でしかない。だから、「意識の働きに還元できる」のであり「意識の働きの本質構造を解明すれば、全てはわかる」ということになる。自然な態度では隠れている「意識の働き」と対峙するのが「現象学的還元(超越論的還元)」であり、その還元によって、全ては超越論的主観の世界として描かれ、どこまで客観性を高めようと、それは経験的で、間主観性的な確信の世界であることが明らかになる。
 形相的還元とは、「理念化(一般抽象化)」すること。文字通り「形相=本質=理念へ還元する」ことである。偶然の個別の流動する心理的な現象、事実から、共通的な普遍的な「本質」、「理念」をみてとることである。現象学の記述は、その理念の記述であり、何度反復してもその理念を正しく述べる言語によって確定していく。
 他人と私、他人同士が、同じ視覚をもっていないなら、他人の行動はわからないはずである。でも、私たちはわかっている。だから、他人の経験は、私の超越論的世界の中で、他人と私と共通の世界の経験として間主観的に妥当している。間主観的還元は二つの意味を持ち、一つは「自我」と「他我」に共通する普遍的な自我の構造を理解しようとする側面、もう一つは他者と共に共同体の中にいる私ということを理解する側面である。
 現象学は洞察するだけであり、創造しないと言われる。現象学が個別の理論をつくらないことはわかるが、その洞察は理論をつくる際の優柔不断の役割を正しく見通してくれているのだろうか。現象学的な判断中止や還元は日常の生活世界での私たちの自然な仕方とは随分と違う。ここまでのフッサール風の方法は私の日頃の生活での常識とは随分と違っている。
 私は目に見える動植物の姿や自然現象、つまりは風景の要素についてほとんど知らない。肝心な点は、私は多くのことを知らなくても一向に困らず、判断中止をせずに、優柔不断なままに済ますのである。だから、謎は生活世界に残ったままに放置される。だが、謎を気にせず、謎と共に生きる。だが、そのためには謎は無害のものに過ぎなく、あちこちにあっても無視して構わないものと見做されなければならない。私はそれで一向に支障なかったと記憶している。「知らない」ことが謎として意識されず、知らないままに残される。残されても気にならない。これが現実の優柔不断のあり方であり、判断も判断中止もせずに、単純に優柔不断のままで過ごすことが健康で自然な姿ではないだろうか。むろん、知らないままにしたことが禍根を残すことは沢山あり、そうなると、途端に知識探求に拍車がかかるのである。
 人は真に問題を見つけたとき、その途端に優柔不断の態度に気づき、明確な判断を追求し始める。その際、見つけた問題だけでなく、すべてをエポケーしてから問題を考えるなどということはしないで、問題が関わる(優柔不断なままにしてきた)周辺を見直し出すのである。これは場当たり的な対処そのものなのだが、私たちの歴史はフッサール風にではなく場当たり的に解決してきたことを示している。強いて言えば、私たちは一括判断中止ではなく、一点集中判断中止をしてきたのである。
 デカルトの方法的懐疑はどのようにすべてを疑うかの仕方を教えてくれなかったし、ヒュームの懐疑はそこから抜け出せず、そのため懐疑論という名前がついてしまった。優柔不断な懐疑も的を決めた対応手順がないと判断中止のままで徒労に終わる危険が高いのである。