ゴデチアの花

 ゴデチア(英語Godetia、Clarkia amoena)はアカバナ科の耐寒性または半耐寒性の一年草で、日本では園芸植物で、江戸末期から明治初期に渡来しました。別名はイロマツヨイグサ(色待宵草)で、マツヨイグサに似ているためです。アメリカ合衆国の西海岸、特にカリフォルニア州に多く自生しています。

*最後の画像は同じアカバナ科ヒルザキツキミソウ

 

花と虫の一コマ

 画像はホワイトレースフラワー(学名Orlaya grandiflora)にやってきたホソヒメヒラタアブのオスです。何とも小さなアブですが、どうやらその姿を捉えることができました。

 ホワイトレースフラワーの和名は「ドクゼリモドキ(毒芹擬き)」で、猛毒を含むドクゼリと似ていることから名付けられました。「擬き、もどき」ですので、毒はなく、美しいレースのような花です。

 ホソヒメヒラタアブは「アブ」とありますが、いわゆるアブの仲間ではなく、ハエの仲間です。その名の通り、成虫は花に飛来して蜜や花粉を食べます。

 

ヒメエニシダの花

 エニシダ(金雀枝)は春に黄色や白の花を咲かせるマメ科の低木です。エニシダ、キングサリと同じマメ科のフジ(藤)の花は誰もが知っています。園芸では「藤棚」を作り、花を密生させて鑑賞します。キングサリもエニシダも共に黄色の花色が見事ですが、エニシダにはシロバナエニシダアカバエニシダ、ホオベニエニシダなどがあり、それらの花色は驚くほど多彩です。園芸店では春先に黄色の花が咲く鉢物が出回りますが、これは正確にはヒメエニシダ(姫金雀枝)です。

 湾岸地域ではヒメエニシダをよく見ます。新緑の中でその黄色の花がとても印象的です。ヒメエニシダは、エニシダと似ていますが、穂状花序に小振りで芳香のある黄金色の小さな蝶形の花を上向きに咲かせます。ヒメエニシダ(姫金雀枝)はエニシダの交配雑種です。

 

ふるさとに関わる四人についての不公平で、私的な思い出

(1)ふるさとと西脇順三郎

 西脇順三郎は1894年、新潟県小千谷に生れました。1911年中学を卒業し、画家を志し上京。藤島武二を訪ね、彼の内弟子になります。1912年慶應義塾大学に入学、1917年卒業論文「純粋経済学」を全文ラテン語で書きます。1920年慶應義塾大学予科教員に推され、この頃から文章を執筆し始めます。上田敏の『海潮音』の雅文調、美文体に激しく反撥し、萩原朔太郎の『月に吠える』に大きな衝撃を受けます。順三郎が朔太郎に出会ったことは、近代詩、現代詩を語る上で、不可欠の出来事で、朔太郎の『月に吠える』(1917)と順三郎の『Ambarvalia』(1933)は、大正、昭和期を代表する詩作となります。

 1922年慶應義塾留学生となって英語英文学、文芸批評、言語学研究のため渡英。1925年に帰国し、26年文学部教授となり、古代中世英語英文学、英文学史言語学概論を講義し、1929年には日本英文学会第1回大会で ‘English Classicism’ と題して英語で講演し、英文学者としても表舞台に立ちます。

 『Ambarvalia』以後は詩集を出さず、戦火がひどくなると故郷の小千谷疎開し、そこで絵を描き、南画の研究などを行い、『旅人かへらず』の構想を抱きます(小千谷市立図書館には順三郎寄贈の記念室、記念画廊があります)。終戦後、再び上京し、詩作を始め、「旅人は待てよ/このかすかな泉に/……」で始まる東洋的幽玄漂う長篇詩が1947年刊の『旅人かへらず』でした。この詩集には自然への永遠の郷愁が詠われています。

 その「はしがき 幻影の人と女」を引用してみましょう。

 

 自分を分解してみると、自分の中には、理知の世界、情念の世界、感覺の世界、肉體の世界がある。これ等は大體理知の世界と自然の世界の二つに分けられる。

 次に自分の中に種々の人間がひそんでゐる。先づ近代人と原始人がゐる。前者は近代の科學哲學宗教文藝によつて表現されてゐる。また後者は原始文化研究、原始人の心理研究、民俗學等に表現されてゐる。

 ところが自分の中にもう一人の人間がひそむ。これは生命の神秘、宇宙永劫の神秘に属するものか、通常の理知や情念では解決の出來ない割り切れない人間がゐる。

 これを自分は「幻影の人」と呼びまた永劫の旅人とも考へる。

 この「幻影の人」以前の人間の奇蹟的に殘つてゐる追憶であらう。永劫の世界により近い人間の思ひ出であらう。

 永劫といふ言葉を使ふ自分の意味は、從來の如く無とか消滅に反對する憧憬でなく、寧ろ必然的に無とか消滅を認める永遠の思念を意味する。

 路ばたに結ぶ草の實に無限な思ひ出の如きものを感じさせるものは、自分の中にひそむこの「幻影の人」のしわざと思はれる。

 次に自分の中にある自然界の方面では女と男の人間がゐる。自然界としての人間の存在の目的は人間の種の存續である。隨つてめしべは女であり、種を育てる果實も女であるから、この意味で人間の自然界では女が中心であるべきである。男は單にをしべであり、蜂であり、戀風にすぎない。この意味での女は「幻影の人」に男より近い關係を示してゐる。

 これ等の説は「超人」や「女の機關説」に正反對なものとなる。

 この詩集はさうした「幻影の人」、さうした女の立場から集めた生命の記錄である。

  昭和二十二年四月

                                  西脇順三郎

 

 「ふるさと」と「幻影の人」とが老人の私の記憶の中で重なるのです。その私は昭和二十二年十二月に同じ越後で生まれました。ふるさととは人の特性を巧みに利用した自然の悪だくみのようなもので、それが人間の本性をつくる母親になっているのです。子供時代の記憶は頑固で、しつこく、残虐で、それゆえ、私のふるさとの根源にあるのです。

 

(2)小川未明のふるさと

 小川 未明(おがわ みめい、1882-1961)は、「日本のアンデルセン」、「日本児童文学の父」と呼ばれたのですが、戦後1950年代の童話伝統批判で集中砲火を浴びました。21世紀に入り、彼の作品は再評価され出しています。

 未明は上越市に生まれ、父の澄晴は上杉謙信の崇拝者であり、春日山神社を創建しました。旧制高田中学、東京専門学校(早稲田大学の前身)専門部哲学科を経て大学部英文科を卒業、坪内逍遙島村抱月から指導を受けました。相馬御風は中学以来の学友です。

 青空文庫に「ふるさと」、「ふるさとの林の歌」がありますから、是非読んでみて下さい。そこに登場する「ふるさと」は未明のふるさと上越市を彷彿させるのですが、都会である東京との対比的な表現は確かに昭和のものです。私を含めて多くの人が、特に若い人たちはそのふるさと像が現代のものとは随分と違うと感じるのではないでしょうか。とはいえ、私を含めて、現在の日本人が「ふるさと」をどのように捉えているかと問われると、答えが見つかるとはとても思えないのです。

 さらに、小川未明著、小埜裕二 編・解説『新選小川未明秀作随想70 : ふるさとの記憶』蒼丘書林、2015.7を読んでみるのがいいかも知れません。また、相馬御風のふるさと観と比べてみると、面白い対比が見られる筈です。

 

(3)相馬御風とふるさと

 糸魚川歴史民俗資料館(相馬御風記念館)傍に御風の文学碑があり、そこには『還元録』(1916、御風33歳)の一節が刻まれています。彼は『還元録』に「ふるさと」回帰のいきさつを著し、友人たちに配り、糸魚川に帰ります。

 さて、碑に刻まれている歌は弘法大師空海が弟子の智泉が亡くなった時に詠んだものと伝えられています。御風は自らの心身の苦悩に対し、真言宗の教えと自分のふるさとを重ね合わせたのです。

 

阿字の子が 阿字のふるさと 立出でて また立返る 阿字のふるさと

あじのこが あじのふるさと たちいでて またたちかえる あじのふるさと)

(この世は、かりそめの宿みたいなもので、帰るべき場所は阿字の心の中です。私たちの誰もが元々は阿字の世界にいて、修行のためにこの世界へ生まれ出で、そして再び阿字の世界に戻るという真言宗の教えを詠んだ歌です。)

 

 阿字(あじ)はサンスクリットの最初の文字で、万有の根源を象徴しています。密教では宇宙を法身(真理そのものとしてのブッダの本体のこと)とみなし、阿字はそれを象徴する文字で、胎臓界大日如来を意味しています。密教では、阿字はすべての梵字に含まれており、宇宙のどのような事象にも阿字が不生不滅の根源として含まれていると考えます。ですから、大日如来は「森羅万象」、「宇宙」、「いのちが循環するそのもの」を象徴する仏で、「阿字」はその大日如来を指します。それゆえ、阿字は「大日如来の子どもたちが、大日如来のふるさとからやってきて、地球上で生命をもつ存在として生活し、その役目が終わると、また大日如来のふるさとに戻っていく」という密教の世界観を表現しているのです。密教では大日如来が宇宙であり、宇宙の真理であり、すべての命あるものは母なる大日如来から生まれ、釈迦如来を含む仏はすべて大日如来の化身だと考えるのです。

 このように見てくると、(ここでは述べなかった)トルストイの思想と真言密教の教えが御風に帰郷を促し、ふるさとでこそ文学的な実践が可能になると御風は考えたのではないでしょうか。

 御風は多くの校歌の歌詞に地域の特徴を詠い込みました。彼は200校を超える校歌をつくっています。母校の早稲田大学日本大学の校歌の歌詞も彼の作品です。新潟県内だけでも144校の校歌を作詞しています。

 また、御風は奴奈川姫伝説を元に糸魚川でヒスイ(翡翠)が産出すると推測し、それが1935年のヒスイの発見につながりました。

 

(4)ふるさとの堀口大學

 堀口大學は1892(明治25)年東大赤門の前の家で生まれ、そのため「大學」と名付けられました。2歳で外交官だった父の故郷長岡に戻り、そこで長岡中学校卒業まで過ごします。慶應義塾大学を中退し、14年間に及ぶ外遊中に第一次世界大戦中スペインに亡命していた画家マリー・ローランサンと出会い、フランスの同時代の芸術に目覚めます。中でもキュビスムの擁護者であった詩人アポリネールや前衛詩に強い影響を受けます。1925(大正14)年、第一書房より訳詩集『月下の一群』を出版しますが、それは友人佐藤春夫に捧げられ、その名訳は若い詩人たちに大きな影響を与えました。その後は長谷川潔棟方志功の挿画で飾られた美しい詩集や翻訳書を次々と発表していきます。

 昭和16年から静岡県興津の水口屋別荘に疎開していましたが、昭和20年7月妙高市関川にある妻マサノの実家畑井家に再疎開しました。そこに1年5か月ほどいて、昭和21年高田(現上越市)の南城町に移り、さらに4年過ごしました。その後、神奈川県の葉山町に家を構え、そこで多くの詩集を出し、89歳で亡くなります。疎開先の高田には写真家濱谷浩、陶芸家齋藤三郎、彫刻家戸張幸男などの若き芸術家が集まってサロンの様相を呈していました。南城町は私が中学、高校時代の通学路だったのですが、大學がいたことなどまるで知りませんでした。

 雪や妙高山について大學が残した詩を引用してみましょう。『雪国にて』(昭和22年、柏書院)に「杉の森」という短い詩があります。

 

 たださへさびしい杉の森

まして山里 雪の中

 

 『冬心抄』(昭和22年、斎藤書店)の「白ばら」は妙高山を白ばらに喩えたものです。

 

 西のかた

いち夜に咲いた一輪の

空いっぱいの大白ばら!

雪晴れの朝の妙高

 

 妙高高原駅から関川の信号を過ぎて右側に国天然記念物の大杉がある関川天神社があります。その天神社の近くに大學疎開の地があります。天神社の森に続いて、背後に妙高山を望む妙高高原南小学校(現妙高市妙高高原小学校)があり、大學はその校歌を作詞していました。

 

(一番)

越後信濃の国ざかい

瀬の音絶えぬ関川の

清き流れに名にし負う

歴史にしるき関所あと

(二番)

姿凛々しき妙高

高根の風を身に受けて

われらこの地に生まれいで

爽けき中に人となる

(三番)

匂うばかりの雪晴れの

あしたの空のけざやかさ

天は瑠璃色 地は真白

われらが行くて祝うとや

 

 「野尻湖」という詩は「都なる青柳瑞穂に」捧げられているのですが、私には大学2年生のフランス語の授業で、モーパッサンの短編集を読まされた青柳先生の姿が浮かび上がってきます。青柳先生は1922年慶應義塾大学仏文科に入学。在学中にアンリ・ド・レニエの小説を日本語に翻訳し、永井荷風の個人指導を受けます。大学卒業後は堀口大學の門人として創作詩を発表、その後は翻訳家となりました。青柳先生の授業はもっぱらモーパッサンのことだけで、荷風も大學も登場しませんでした。さて、その詩とはどんな内容なのでしょうか。寡黙な越後の人たちとは違って、随分と饒舌に、賑やかに「ふるさと」を詠っています。

 

小田 坪田 それにやつがれ

三人で君を待ち

三人で釣をした

 

その日 野尻湖は瑠璃いろの玻璃だった

空は湖水とひと色だった

波は湖岸の藤波ばかり

 

かたの揃ったハヤが釣れた

どのハヤも君に似てゐた

山々がビクをのぞいた

 

妙高も 黒姫も 飯綱も、斑尾も

どの山も姿があった

どの山も青山だった

 

高根には雪が残って

蝉はまだ珍らしかった

クヮッコウがこだまし合った

 

*玻璃(はり):水晶やガラス、藤波:風で藤の花が波のようにゆれること、青山:草木が青々と茂る山

イペーの黄色い花

 イペーはノウゼンカズラ科の広葉樹。イペーは南米先住民語で〈皮の厚い木〉を意味する。イペーはブラジルの国花で、サクラと同じように花が咲き終ってから、葉が出てくるという特徴があり、花は一ヶ月ほど咲き続けます。

 南米から沖縄に最初に導入されたイペーはブラジルの国花で、花はピンク。その学名はTabebuia avellanedae。次に 沖縄に導入されたのはイペーの仲間のコガネノウゼン(黄金凌霄)で、花は黄色(画像)で、学名はTabebuia chrysotricha。その後、コガネノウゼン方が、多く植えられるようになり、コガネノウゼンがイペーと呼ばれるようになりました。花の形はラッパ状で、それが別の別名ゴールデントランペットツリーの由来。

 

カラタネオガタマの花

 昨年カラタネオガタマの生垣を見つけたのだが、今年もその生垣にたくさん花が咲き、甘い香りを漂わせている。

 オガタマノキ(招霊木)の「オガタマ」は「招霊(オキタマ)」が転訛したもので、かつては神の「依代(よりしろ、神霊が寄り憑く樹木、岩など)」として寺社を中心に植栽されていました。オガタマノキモクレンモクレン属に属する日本原産の常緑高木で、花はミヤマガンショウやモクレンに似ているとのことですが、残念ながら、私はオガタマノキの花をまだ見たことがありません。

 そのオガタマノキによく似た木に、同じモクレンで中国原産のカラタネオガタマ(唐種招霊)があります。カラタネオガタマモクレン科の常緑樹で、別名はトウオガタマ(唐招霊)。カラタネオガタマは江戸時代に渡来しました。カラタネオガタマの花にはバナナのような甘い強い芳香があり、別名は「バナナノキ」、英語ではバナナブッシュです。

 

集団と集団の美

 個体の美と集団の美は何がどのように異なるのか。実際に集団美を巧みに使っているように思われる例はあちこちに溢れている。集団で生きるのが生物の基本的な本性の一つであることを考えるなら、個体の美は集団の美から派生したものと考えるべきなのかも知れない。国立日立海浜公園は集団の美を売り物にしているようで、ネモフィラの花の集団はその一つ。確かに、チューリップもネモフィラも数で美しさが発揮できる花で、一輪の美しさを強調する正統的なバラやキクとは好対照をなしているように思われる。

 日本人は集団行動が得意だと言われ、日本人自身がそれを肯定しているのだが、日本人は美学のレベルでも集団の美しさに敏感なのだと言わんばかりである。個性の美しさと集団の美しさは確かに異なるようだが、集団は果たして個性をもてるのだろうか。

 画像のチューリップ、ネモフィラ、ベロニカ、オオキバナカタバミはなぜか集団が似合う。花自体が単純というのではないのだが、単体では物足りないのである。いずれも近くの公園のもので、日立の海浜公園よりずっと小規模な集団だが、集団の美を十分感じさせるのである。

 集団で棲息することは生物の基本的な適応戦略の一つであることを考えるなら、集団の美は個体の美とは違う適応の一形態だと考えたくなる。だが、生物種が集団として存続するために各個体伸びがあれば十分ではないかという反論もでき、「個体と集団の違いは個体の美と集団の美の違いではない」ことを思い出すべきなのだろう。