シランの花が咲く

 シラン(紫蘭)は、ランの仲間で、野生のものは何と準絶滅危惧種です。でも、園芸品種として広く普及していて、今はあちこちで赤紫色の花を咲かせています。ラン科の植物には珍しく、日向の畑土でも栽培でき、庭や公園に広く植えられています。とても丈夫な植物で、とかく栽培が面倒なランの仲間ではこの花ほど親しまれているランはありません。そのためか、野生種か植栽かの区別がつかなくなっています。別名は紅蘭(ベニラン)、朱蘭(シュラン)。

 シランは春になると、地下に連ねた扁平な地下球(偽球茎)からササのような葉茎を伸ばし、先端に紫紅色の華麗な花を咲かせます。晩秋には葉を落とし休眠します。俳句の季語は夏で、咲き誇るシランは暑さを予言するかのようです。

 シランの花は紫紅色ですが、花の色が白色のもの、斑入りのもの、淡色花、花弁が唇弁化した「三蝶咲き」などがあり、画像は普通の紫蘭と白花紫蘭(シロバナシラン)です。「白花紫蘭」とは形容矛盾気味で、別名の「白蘭(ハクラン)」の方が名前としては筋が通っています。画像は白い花の中心がピンク色に染まる品種で、その姿が口紅を塗った様に見えることから、口紅紫蘭と名付けられています。白とピンクのコントラストが妙に生々しく感じられます。

f:id:huukyou:20210501052611j:plain

f:id:huukyou:20210501052635j:plain

f:id:huukyou:20210501052649j:plain

f:id:huukyou:20210501052707j:plain

f:id:huukyou:20210501052723j:plain

 

不易流行

 「不易流行」は芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した思想。「不易(不変の真理)を知らざれば、基立ちがたく、流行(変化)を知らざれば、風新たならず」、しかも「その本は一つなり」、すなわち「両者の根本は一つ」であると芭蕉は主張します。「不易」は変わらないこと、変えてはいけないもので、逆に「流行」は変わるもの、変える必要があるものを指しています。

 「不易流行」は俳諧について説かれた考えですが、他の事柄にも適用されてきました。不易と流行の基は一つ、不易が流行を、流行が不易を動かす、と言われれば、哲学好きは弁証法的変化を思い起こす筈です。「万物流転」、「諸行無常」、「逝く者はかくの如きか、昼夜を舎かず」、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」などは、「流行」が世界の真理であるという立場。一方、パルメニデスの不変の哲学、4次元主義、対称性の原理等は「不易」が世界の真理という立場。この二つの立場は相容れない立場であると考えるのが合理主義、二つの立場は補完し合い、その基は一つと考えるのが弁証法主義とすれば、芭蕉の考えは後者となります。

 そのような議論は横に置き、俳句のルールそのものに即して言えば、5-7-5の文字数、季語の有無、外国語の俳句に関する不易と流行が問題となるでしょう。さらに、俳句の認識論的な不易と流行、解釈に関する不易と流行等々、様々な不易と流行が考えられます。俳句の形式から内容へ、さらには俳句以外の事柄へと考察の対象を拡大していくと、ついには妙高市の不易と流行、つまり市の持続させていくべき伝統と、市への新しいものの導入が想像できますし、最後は私自身の不易流行が問題になってきます。

 このような説明は言葉遊びのように思われ、言葉遣いだけが独り歩きしているだけで胡散臭いこと極まりないのですが、それでも「不易流行」(あるいは、持続可能性と変化)は大変気になるのです…

ムラサキツユクサの花

 夏の早朝、露に足を濡らしながら見たツユクサの青色はしっかり憶えている。ツユクサは野生種で、今ではムラサキツユクサはその園芸種の名前で通っている。既にムラサキツユクサが咲き出していて、ツユクサより大柄で、花も大きい。

 ムラサキツユクサツユクサムラサキツユクサ属に分類される多年草。北米から中南米にかけて約20種が分布し、日本には明治時代に入ってきた。梅雨の中で大きな3枚の花弁を優雅に広げるが、今年は既に花を咲かせている。園芸種で種類が多く、色とりどりに競い合うように咲き続ける。

 高さ50cmほどの小さい花の「紫露草」と、高さ1mほどの大きめで色数豊富な花の「大紫露草」があるが、普通は両方とも「紫露草」の名で呼ばれる。普通に見かけるものはこれら二つの交配種。花色は青紫のほか、赤紫、ピンク、白。

 素人の私の勝手な望みはムラサキツユクサツユクサの交配種で、ツユクサの青色の花をもつムラサキツユクサ。朝露の中でその青い花を見てみたい。

f:id:huukyou:20210430051722j:plain

f:id:huukyou:20210430051739j:plain

f:id:huukyou:20210430051756j:plain

f:id:huukyou:20210430051818j:plain

ツユクサ

 

無常観と持続可能性(2)

 最近の多くの門徒門徒の自覚さえ覚束ない人が多いのですが、それでも門徒であることを代々持続してきました。「持続可能である」と形容される社会よりはずっと確かな歴史的な事実として共同体の中で門徒であることを持続してきました。そして、当然ながら仏教の「無常」観がぼんやりとではあれ、共有されてきました。

 そんな共同体の祖父母に育てられた高校生2年生のAさんは理系の生徒で、物理学や生物学に強い関心を持っています。生物学的な「適応(adaptation)」はダーウィンに始まる進化生物学の基本概念の一つであり、自然選択(natural selection)によって適応形質が獲得され、それを持続する生物種が生存するというのが「自然選択の原理」の主張だと学び、適応と持続性、あるいは持続可能性は重なり合う部分が多いことを学びました。

 さらに、Aさんは「持続「可能性」(sustainability)」の「可能性」が「統計的な意味」での可能性だと理解することによって、熱力学の統計力学的解釈を受け入れ、数学的な対称性(symmetry)概念が物理学的な保存性(conservation)と密接な対応関係があり、それを表現した「ネーターの定理」に強い感銘を受けました。

 それらのことから、Aさんは保存的でない基本法則の一つとして、熱力学の第二法則に注目しました。それはエントロピー増大の法則と呼ばれ、どのような熱力学的システムもそのエントロピーは増大していく、次第に秩序が壊れ、最終的には「熱死」と呼ばれる無秩序の極みに達するという主張です。

 この法則は仏教の主張である無常観、つまり世界は「諸行無常」であるという主張と一部重なっているように見えます。ここは微妙なのですが、単なる物理的な変化も無常ですので、「無常」や「空」といった仏教概念が正確にどのような変化を指しているのかに依存することになります。Aさんとしては、熱力学的な変化を本質的に含むのが仏教の「無常」だと解釈したいのです。

 Aさんには「持続可能な経済成長(development)」や「環境保全と経済成長の両立性」はとても相対的で、限定的なものに過ぎず、人間中心的な利己的主張でしかないと思われてならないのです。限定的に持続可能に見えるシステムを拡大するなら、それら両立性が生物学的、物理学的に成り立たなくなるというのがAさんの暫定的な結論です。

フジの花

 キングサリと同じマメ科のフジ(藤)はつる性の落葉植物。本州、四国、九州の山野で見られ、普通は他の木に絡みついて育つが、庭では「藤棚」を作り、花を密生させて鑑賞する。

 開花期は4~6月で花房は30-90センチほどに垂れ下がる。フジは「古事記」にもその名があるほど日本文化との関係が深い。開花期の幻想的な風景は多くの人を魅了する。 

 フジにはノダフジ(野田藤)とヤマフジ(山藤)の二つがある。二つはツルの巻き方が違い、ノダフジは上から見て右巻き、ヤマフジ左巻きになる。つまり、ヤマフジは時計と反対回り、ノダフジは時計回りになっている。ヤマフジの花房は10-20センチ程度と短く、幹はノダフジほど太くならない。

 さらに、晩夏から初秋にかけて熟す豆のような実も美しい。でき始めは光り輝き、乾燥するに従って黒褐色に変わる。中には直径1センチほどの種子が数個あり、1月頃になって乾燥すると自然に裂開して遠くまで飛散する。

 「藤紫(ふじむらさき)」は藤の花のような明るい青紫色のことで、平安の頃より女性に人気の高い『藤色』と、高貴な色の象徴である『紫』を組み合わせた色名。藤紫が染め色として登場するのは江戸時代後期だが、明治期の文学作品や美人画などに数多く見られ、明治文化を代表する色である。

f:id:huukyou:20210429053858j:plain

f:id:huukyou:20210429053915j:plain

f:id:huukyou:20210429053942j:plain

f:id:huukyou:20210429053958j:plain

 

キングサリの花

 「金鎖」はカネグサリやキンサではなく、キングサリであり、マメ科キングサリ属のキングサリはヨーロッパ南部原産で、大きな木になると3メートルくらいあり、満開の花を下から見上げると、晴れた日は青い空に黄色が映えて見事である(画像)。和名は英名のゴールデンチェーン(golden chain)をそのまま訳したものである。

 日本には明治初期に渡来して、キングサリ、あるいはキンレンカと呼ばれている。咲き始めたフジの花に似て、同じマメ科特有の形の花を咲かせる。5-6月、若葉を背景に、金色の花が房になって初夏の風に揺れる様はフジに似て、風情がある。そのためか、別名はキバナフジ(黄花藤)。なお、キングサリにはアルカロイドが含まれていて、有毒である。

f:id:huukyou:20210429044257j:plain

f:id:huukyou:20210429044319j:plain

f:id:huukyou:20210429044337j:plain

f:id:huukyou:20210429044353j:plain

 

無常観と持続可能性

 仏教の基本教義の一つが「諸行無常」で、Everything is transient、と英訳されている。これはEverything is unsustainable(何事も持続不可能)とも表現できる。すると、最近よく聞く「持続可能性、サスティナビリティ(Sustainability)」と結びつき、至極単純に考えるなら、諸行無常と持続可能性は互いに相反する概念だということになる。Something is sustainableの否定形はEverything is unsustainableだからである。これをさらに極端に一般化するなら、仏教の世界観(つまり、無常観)は持続可能性と矛盾するという結論を導き出せる。

 むろん、誰もこんな乱暴な推論をしないとは思うのだが、論理的には健全な推論に見える。この推論から、仏教的な世界観と環境やシステムの持続可能性とが矛盾・対立すると捉えていいのだろうか。