マメツゲの黒い実

 豊洲市場の周りは公園になっているが、そこにはマメツゲやキンメツゲが多い。マメツゲはイヌツゲの一変種で、葉は円形、表面の膨らむ様子が豆に似ていることから命名された(だから、マメイヌツゲとも呼ばれる)。自生も見られるが、人工的に植栽されたものがほとんどで、丸く刈り込まれたものをよく見る。イヌツゲの品種である証拠に、種を播くとイヌツゲが生えてくる。だから、マメツゲとして増やすには挿し木が必要である。性質はイヌツゲに準じ、初夏に花を咲かせ、秋には実が黒く熟す。

 イヌツゲはモチノキ科モチノキ属の常緑樹。見た目と名前がツゲとよく似ているため、同じ仲間と思われがちだが、ツゲはツゲ科ツゲ属でまったく違ったもの。ツゲは成長が遅く、緻密でなめらかなツゲ材として櫛や印鑑の高級材料となるのに対し、成長の早いイヌツゲはツゲよりも材の質が劣るという意味で「犬」の名がつけられた。ツゲと違って、イヌツゲの実は割れずに黒く熟す。

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神々と人々の絆(5)

神仏習合

 朝鮮から日本に「仏教」が伝来すると、日本固有の神々と仏たちとは融合しました。在来の種と外来の種が交雑するかのように習合しました。それが「神仏習合」と呼ばれるものです。この「仏教」と「神道」の習合は、私たち日本人の神や仏の観念を知る上で不可欠のものです。
 神道に対して仏教が単に外来種のように移入されたのではなく、朝廷や貴族の守護神として移入されたという点に大きな特徴があります。後のキリスト教伝来の場合とは違って、仏教は神道の一部として移入され、「仏」は神の一人とみられていたのです。神道は現世利益的な「繁栄、守護」を目的としていて、仏教もそれと同じ目的で受容されたのです。
 釈迦の原始仏教は自ら「悟りを開く」のが目的ですが、大乗仏教になって「仏が人々を救う」という宗教に変わり、その「救済の力」が、現世利益の場合は「守護力」に求められました。庶民にとっては「病気や災厄からの守り」であり、朝廷や貴族にとっては「護国、鎮守」です。ですから、朝廷、貴族は仏教を保護し、仏教も「勢力拡大」のため朝廷、貴族と結びついていきました。
 ギリシャやエジプトの神々は対立していませんし、ローマの神々はギリシャの神々と融合しました。神々の働きが同じであり、それゆえ、融合しても矛盾はなかったのです。日本が仏たちと神道の神々とを融合させたのも同じです。そして、仏教の方も「神道とは異なり、釈迦が説く出家して修行によって悟りを得る」ことが目的だと強弁せず、「護国、守護」の目的は神道と同じだと主張し、それゆえ簡単に受容されたのです。確かに、本来の仏教は悟りを開くことが目的で、個人の魂の救済を目的にしていました。でも、これだけを最初から主張すると、仏教と神道は両立しなくなってしまいます。
 仏教の「公式な伝来」は欽明天皇の時代で『日本書紀』では552年ですが、一般的には538年となっています。仏教の送り手は「百済聖明王」です。『日本書紀』によれば、欽明天皇は使者に対して「自分はいまだかつてこんな深遠な教えを聞いたことがない」と言いながら、臣下たちには「百済からの「仏」は、見た目は立派だけど、敬うべきなのか否か」などと言っています。これに対して、蘇我稲目は「百済ではみなが敬っているのですから、日本がこれに背くことができましょうか」と答え、物部尾輿は「いまさら蕃神などを礼拝したら、国の神々が怒ることでしょう」と言っています。二つの答えに困った天皇は、「稲目が言うのだから、試みに礼拝させよう」としたのです。蘇我稲目は、「神」なのだから礼拝すべき、と答えたのですが、尾輿は「国の神」の方を大事にすべき、と言ったのです。つまり、「仏」は本質的に在来の神と同じレベルで捉えられているのです。そして、天皇は稲目に「試しに」礼拝させるというわけですが、何を「試して」いるかと言えば、在来の神々に期待されていたもの、つまり「守護神」としての能力の大きさでした。

 しかし、仏の能力を知ることなど簡単にはできませんから、586年に即位した用明天皇は「自分は仏法を信じ、神道を尊ぶ」として和解の道を探ったのですが、結局うまくいかず、蘇我馬子物部氏を襲い、これを滅ぼし、武力で仏教擁護派が勝ち、これ以降朝廷は「仏教色」に彩られることになります。この仏教は「護国、鎮守」を目的とする仏教で、「出家して悟りを開く」仏教ではありませんでした。これは聖徳太子も同じで、彼は新しい神によって旧弊の朝廷政治を変えようとしたのであって、悟りを求める仏教に帰依して「魂の救済」を求めたわけではありません。

 仏教は本来「悟りを開く」ものでした。でも、これが歴史的に変質していき、先ずは朝廷、貴族のものとして「守護神」と見做され、さらに民衆の間でも人々の願いに応えるものとなっていきます。「極楽浄土」の願望も、つまるところは社会や生活レベルでの「救済願望」だったのです。
 仏教が「民衆のもの」とされていくのが、大乗仏教運動です。「大乗仏教」では、「悟りを得る」ことより、「救済、守護」が目的へと変わりましたが、もう一つの大変化が「民間信仰」との融合です。「民衆の宗教」を標榜すれば、民間の既成宗教を無視することができません。仏教はこうした民間の神々を取り込み、それが「梵天」、「帝釈天」、「吉祥天」等の天部の仏となりました(既述の「神々と人々の絆(4):仏のランク参照)。伝来した仏教自体が既に「他の民間信仰と融合する」という性格を身に付けていたのです。ですから、仏教が神道と習合しても何ら不思議はなかったのです。
 仏教の神道化の一例が「祖先崇拝」です。仏教によれば「死者」は「仏界に成仏している」のですから、法事などして供養する必要はない筈です。仮に葬式を出さず、先祖の霊が「輪廻の輪」の中をさ迷っているとしても「法事」をしたところで今更どうにもなりません。また、お盆で「先祖が帰る」というのも変な話で、仏教では「先祖の霊は仏界にあって」二度とこの輪廻の苦しみの世界に戻ることはありませんし、仏界に行き損なっている場合なら、六道の輪廻の中にいるのですから、帰ってくることができないのです。でも、神道の「祖先崇拝」では、先祖の霊は死んで何処かにいってしまうのではなく、山にあって「死霊」というまだ穢れた状態にあるものが、子孫が供養することでだんだん穢れがとれ、やがて「祖霊」へと浄化していくのだ、と考えます。ですから、神道では「供養の儀式」が必要なのです。また、神道では当然先祖の霊は帰ってきます。先祖の霊はどこか遠くに行ってしまうのではなく、死んで「山」に行き、そこで浄化をされて祖霊になるからです。
 神道では「死を嫌い」ます。なぜなら、それは繁栄、健康が消失ですることであり、そのため、神道は儀式としての葬式はしませんでした。仏教は伝来以来「先祖供養の儀式」をやることによって人々の心に食い込んでいったのです。この仏教の葬式に神道の観念が山ほど入り込んでしまっているのは皮肉ですが、神道と仏教の習合が人々に受容されていったことを見事に示しています。

 神仏習合説として体系化されたものは鎌倉時代に登場します。真言宗による「両部神道」、天台宗による「山王神道」などが有名ですが、平安時代には既に「本地垂迹説(仏が「仮に神の姿」となって現れるとする説)」が唱えられています。仏教側の説ですから、最初は「仏」が主体でした。これが極端な形になって現れるのが「神身離脱説」と呼ばれるもので、神はこの地にあって迷い苦しむ衆生の代表であり、苦しみの神の身から仏の力によって脱却し、神の身から離脱するというものでした。こうして各地の神社に「神宮寺」が建てられ、神の前でお経が読まれたりしたのです。でも、奈良時代の後半、称徳天皇は、神は仏法を守護すべき善なる「守護神」であるとして、神道の神々を再び礼拝したのです。こういう「復権」がはっきりみえるのが「奈良の大仏」の建立の場面で、この時建立を助けるため「宇佐の八幡神」が近くの京都に呼ばれてくるのです(これが「勧請」です)。大変な難事業である「大仏」の建立にやはり強力な助っ人が必要とされ、それに「八幡様」が選ばれたのです。こうして「仏法」を守護する「神」という位置づけが確立していき、「鎮守の神」という性格が付与されていくのです。
 神と仏との間に協力関係が成立するという訳ですから、仏と神ががどれほど同類、同質と思われていたかがよくわかります。こういう中で「神像」などが作られ、貴族の姿をしたものや「僧形」のものなども作られたのですが、どうも「如来」でもなく、「菩薩」でもなく、「明王」とも「天部」とも違うと思われたせいか「神像」は一般化しませんでした。日本の神々は自然の森羅万象を表しているため、人間的な姿として把握することができにくかったようです。
 本地垂迹説によれば、本体の「仏たち」が日本の地に現れる時は「神々」の姿をとります。その姿は違っても、本体そのものは変わらないというのがこの説の主張です。例えば、「伊勢神宮」の「本地」は「大日如来」となるのですが、大日如来が本物で、神の姿は仮の姿ということになり、仏の方が上という意味です。それを表すのが「権現」です。ところが、「明神様」は、「神道」の立場から「優れた神」を言い、「名人」ならぬ「名神」、「明神」です。豊臣秀吉の「豊国大明神」に対して、徳川家康は「東照大権現」と呼ばれていますが、これは家康のブレーン天海が天台宗の僧侶だったからでしょう。なんだか語呂合わせの落語のような話になってしまいました。

ヒイラギモクセイ(柊木犀)

 今はあちこちで金木犀の香りがしているが、よく似た香りで目を向ければ、白い花が見える。近づいて確かめれば、正体はヒイラギモクセイだった。ヒイラギモクセイはモクセイ科モクセイ属の常緑小高木。ヒイラギ(柊)とギンモクセイ(銀木犀)の交雑種。花期は10月から11月で、親譲りの良い香りのする白い花を開かせる。花弁は4枚に分かれ、ギンモクセイの性質が強く出ているようで、反り返らない。雄株しかないので、花はすべて雄花。2本のおしべと、中心部に痕跡的なめしべがのぞく。日本では雄株が中心であるため自生はない。

 下枝が枯れにくく、管理も簡単なため、住宅やマンションの垣根に用いられることが多い。葉の大きさはキンモクセイ程度だが、ヒイラギのように縁にはトゲがある。

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神々と人々の絆(4)

仏のランク

 仏像と聞いて最初に思い浮かべるのは 開祖の釈迦の像でしょう。私たちに馴染み深い名前は「如来」や「菩薩」。原始仏教では偶像崇拝を禁止する釈迦の教えが徹底されていましたが、次第に様々な仏像がつくられるようになっていきます。そして、釈迦の像以外にも「鑑真和尚像」のような高僧なども含まれ、広く「仏教に関連する像」が仏像の定義になっています。
 仏像には さまざまな種類、ランクがあります。ランクの高い順に次の5種類があります。

如来(にょらい)
菩薩(ぼさつ)
明王(みょうおう)
天部(てんぶ)
羅漢・高僧(らかん・こうそう)など

             

(1)「如来」は「真理を悟った者」という意味。釈迦が出家後に粗末な衣一枚で宝冠、装飾品を身につけない姿が如来像です。如来は悟りを得て最高の境地に達したものだけに与えられる最高ランクの仏。如来には以下の種類があります。


釈迦如来(しゃかにょらい)
阿閦如来(あしゅくにょらい)
阿弥陀如来(あみだにょらい)
薬師如来(やくしにょらい)
毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)
大日如来(だいにちにょらい)
多宝如来(たほうにょらい)
五智如来(ごちにょらい)

(2)菩薩は「悟りを求める者」という意味。菩薩は、釈迦が出家前に釈迦族の王子だったころの豪華な衣装、宝冠、装飾品をまとった姿です。つまり、最高の境地である「悟り」を得るために修行中の者を意味しています。菩薩には以下の種類があります。

聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)
十一面観音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)
千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)
如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)
不空羂索観音菩薩(ふくうけんじゃくかんのんぼさつ)
准胝観音菩薩(じゅんていかんのんぼさつ)
馬頭観音菩薩(ばとうかんのんぼさつ)
弥勒菩薩(みろくぼさつ)
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
勢至菩薩(せいしぼさつ)
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
普賢菩薩(ふげんぼさつ)
文殊菩薩もんじゅぼさつ)
月光菩薩(がっこうぼさつ)
日光菩薩(にっこうぼさつ)

 

(3)明王は、如来の命を受けて、いくら諭しても正しい道に向かわない人に対して、髪を逆立てて怒ったり(忿怒相)、手に持った縄で強引に相手を屈服させたりする役割の仏。明王は、密教系の仏像で、如来そのものが変化した仏とも言われています。明王には以下の種類があります。


不動明王(ふどうみょうおう)
降三世明王(ごうざんぜみょうおう)
軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)
大威徳明王(だいいとくみょうおう)
金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
愛染明王(あいぜんみょうおう)
孔雀明王(くじゃくみょうおう)
烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)

 

(4)天(天部)は、天上世界に住む鬼神(仏教に帰依した神々)を意味します。仏教を信じる心を妨げる外敵から人々を護り、仏法を守護するという役割を持っています。釈迦の説教に感動し、仏教に帰依した(他教、インド神話の)神々です。天(天部)は、如来・菩薩の領域と人間(衆生)との中間に位置します。天(天部)には以下の種類があります。

梵天(ぼんてん)
帝釈天(たいしゃくてん)
持国天(じこくてん)
増長天(ぞうちょうてん)
広目天(こうもくてん)
多聞天(たもんてん)
毘沙門天(びしゃもんてん)
弁財天(べんざいてん)
吉祥天(きっしょうてん)
鬼子母神(きしぼじん)
韋駄天(いだてん)

 

(5)釈迦の生前から深く仏教に帰依し、仏法を護持すると誓った弟子たち(十大弟子)や、悟りの境地に近づき尊敬を集めた高僧(十六羅漢、五百羅漢)です。

 

 このように仏像を眺めてくると、八百万の神々とまではいきませんが、仏教にも多くの仏像があり、それぞれ異なる役割を担ってきたことがわかります。偶像崇拝を嫌った釈迦の意志とは大違いで、仏教寺院には様々な仏像が置かれ、信仰の対象となっています。

シセントキワガキ

 柿の実が色づき、紅葉も近い。そんな中で、「四川常磐柿」と書けば、中国四川省原産の常緑の柿と推測ができる。シセントキワガキはカキノキ科カキノキ属で、庭木や盆栽として使われるロウヤガキ(ロウアガキ(老鴉柿)というが、発音しにくいためかロウヤガキと呼ばれ、数十年前にやはり中国から帰来した渋柿である)に似ているが、ロウヤガキは落葉性。葉は肉質で長さ5~9センチほど。ロウヤガキよりも細長い。花期は初夏で、花は小さいが、木自体が小ぶりであるため普通のカキの木よりは花が目立つ。花の後にできる実は直径2~3センチで文字どおり豆サイズだが、甘味があって食用できる。実は一般的なカキとは異なって枝に直接できず、柄にぶら下がってできるのが特徴。実には羽根のようなヘタがついている。

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神々と人々の絆(3)

神道流行神

 神が他の神と交わる神社会には豊かな物語が生まれ、人格にも似た神格が複数存在し、生活世界が展開されることになります。神社会での振舞いによって神の性格、神の行動特性がわかり、分析可能になります。でも、一つの神が絶対であるなら、社会は存在せず、神の社会生活はないことになります。神々が社会をつくるのは人々が社会をつくるのと何ら変わりはない筈です。

 人間社会をモデルにした神社会は拡張された人間社会であり、それをもとに神と人間の混在する社会は生まれますが、それが神話として語り継がれてきました。善人と悪人も神に適用され、善き神、悪しき神が生まれることになります。

 神道は、自然信仰(アニミズム)、民俗信仰(シャーマニズム)、祖霊信仰、怨霊信仰などに由来する八百万の神(やおよろずのかみ)を崇拝する日本の伝統宗教です。神道の起源は縄文時代から始まり、弥生時代から古墳時代にかけてその原型ができたと考えられています。日本の風土や日本人の生活習慣に基づいて自然に生じた神観念は、やがて、自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へと変化してきました。神道の神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」ですが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」という性格も持っています。

  人々に人気がある神は流行神(はやりがみ)と呼ばれ、分霊の勧請によって神社の数を増やしてきました。神道では、神霊は際限なく分けることができ、分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も同じ働きをするとされます。何とも都合のよい神の増殖の仕組みです。流行神として多くの神社に分霊されている神には七つの系統があり、それらは八幡神、伊勢神、天神、稲荷神、熊野神、諏訪神、祇園神です。

 

八幡神

 八幡神は北九州の豪族宇佐氏の氏神として宇佐神宮宇佐市)に祀られていました。この神が数々の吉兆を現し、大和朝廷の守護神となります。その後、八幡神応神天皇と習合し、 現在の神道では、応神天皇誉田別命)を主神として、応神天皇の母である神功皇后と、比売神とを合わせて「八幡三神」として祀られています。 神功皇后は、夫の仲哀天皇が急死した後、住吉大神の神託により、朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めます。新羅は戦わずに降服して朝貢を誓い、高句麗百済朝貢を約します(三韓征伐、これは『記紀』の記録で、真偽は別)。

 比売神は、天照大御神素戔嗚尊との誓いで誕生した宗像三女神多岐津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、多紀理姫命(たぎりひめのみこと))の三柱とされます。宗像氏ら海人集団の祭る神であった宗像三女神が、神功皇后三韓征伐の成功に貢献したことにより、大和朝廷の神として崇拝を受けました。応神天皇の頃から「倭の五王」の時代が始まり、国家は繁栄します。でも、応神天皇から数えて皇位十代目の武烈天皇の死後、後嗣が断絶。そのため、越前から「応神天皇五世の孫」である男大迹王(をほどのおおきみ)が迎えられ、群臣の要請に従って継体天皇として即位します。皇統は、応神天皇から継体天皇を経て、現在の皇室まで繋がります。

 八幡神は、応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、天照大御神に次ぐ皇室の守護神となりました。奈良時代に朝廷が宇佐神宮鎮護国家、仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈ったことにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が全国に広まりました(仏を守る神)。

 

<伊勢神>

 伊勢神とは、伊勢神宮に祀られる神です。伊勢神宮には、太陽を神格化した天照大御神を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれます。天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨した際、天照大御神三種の神器を授け、その一つ八咫鏡(やたのかがみ)は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれることになります。垂仁天皇の治世に天照大御神の祭祀が皇女倭姫命に託され、鏡は伊勢神宮内宮に置かれました。

 古代には伊勢神は「皇室の氏神」として、天皇以外の奉幣が禁止されました(私幣禁断)。中世になると、伊勢神は日本全体の鎮守として、全国の武士から崇敬されます。神仏習合の教説が広まり、天照大御神観音菩薩の化身とされましたが、やがて大日如来と同一視されるようになります。戦国時代になると、神宮領が侵略され、経済的基盤が失われました。資金獲得のため、神宮の信者を増やし、各地の講を組織させる御師が台頭します。近世には、お蔭参り(お伊勢参り)が流行しました。庶民からは親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ばれ、多くの民衆が全国から参拝しました。明治時代から戦前までの近代社格制度では、すべての神社の上に位置する神社として、社格の対象外とされました。

 

<天神>

 天神とは、神格化された菅原道真(すがわらのみちざね)。菅原道真は忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、右大臣にまで昇ります。でも、左大臣藤原時平によって大宰府へ左遷され、現地で没します。菅原道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神と見做されることになりました。また、道真が優れた学者であったことから、天神は「学問の神様」ともされました。道真の墓所には太宰府天満宮太宰府市)がつくられ、道真が好んだという右近の馬場には道真の怨霊を鎮めるために北野天満宮が造営され、この両社が信仰の中心的役割を果たしてきました。

 

<稲荷神>

 稲荷神は、もともとは京都一帯の豪族秦氏氏神として伏見稲荷大社京都市伏見区)に祀られていました。『山城国風土記逸文によれば、秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)は富裕に驕って餅を的にしたところ、その餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去り、そこに稲が実りました。伊呂具は過去の過ちを悔いて、それを根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀りました。神の名は、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」と書かれました。稲荷神は、稲の神であることから食物神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一視され、後に他の食物神も習合します。また、狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の使いにされました。平安京を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになります。東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供し、稲荷神は東寺の守護神と見なされるようになります。真言宗が広まると、稲荷信仰が全国に広まり、祟り神としての側面も強くなりました。

 中世以降、工業、商業が盛んになってくると、稲荷神は農業神から工業神、商業神、屋敷神などの万能の神に変わります。江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになり、稲荷神社の数が急激に増えました。

 

熊野神

 熊野神とは、熊野三山に祀られる神。熊野は、日本古来の山岳信仰の聖地です。山岳信仰と仏教が習合して修験道が成立すると、熊野は修験道の修行の場となりました。修験道は厳しい修行を行うことによって超自然的な能力(験力)を獲得し、その能力によって衆生を救済することを目指します。神仏習合により、熊野神は「熊野権現」と呼ばれ、熊野本宮大社主祭神である家都御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、熊野速玉大社(新宮)の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)は薬師如来熊野那智大社熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)は千手観音とされました。

 平安時代後期、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになってくる中で、熊野の地は浄土と見なされるようになります。院政期には歴代の上皇の参詣が行なわれ、後白河院の参詣は三十四回にも及びました。上皇の度重なる参詣に伴い、在地勢力として熊野別当家が形成され、熊野街道の発展と共に街道沿いに九十九王子と呼ばれる熊野権現御子神が祀られました。鎌倉時代に入ると、熊野本宮大社一遍上人阿弥陀如来の化身であるとされた熊野権現から神託を得て、時宗を開きます。熊野三山への参拝者は、日本各地で修験者によって組織され、檀那あるいは道者として熊野三山に導かれ、三山各地で契約を結んだ御師に宿舎を提供され、祈祷を受けると共に山内を案内されました。次第に民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり、「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに盛んになりまし。

 

<諏訪神>

 諏訪神とは、諏訪大社(長野県)に祀られる神。諏訪大社には二社四宮あります。諏訪湖南岸に鎮座する上社の本宮・前宮と、諏訪湖北岸に鎮座する下社の秋宮・春宮。主祭神は、建御名方神 (たけみなかたのかみ)と妃の八坂刀売神 (やさかとめのかみ)。両神とも上社・下社の両方で祀られています。諏訪大社に祀られていたのは、もともとは諏訪地方の土着の神々でした。

 日本神話によれば、天照大御神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ります。これに対して、大国主命の次男である建御名方命(たけみなかたのみこと)が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑みます。でも、建御名方命は負けてしまい、諏訪まで逃れます。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされます。また、中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られています。

 

祇園神

 祇園神は、仏教の牛頭天王(ごずてんのう)と神道素戔嗚尊(すさのおのみこと)が習合した神。京都の八坂神社もしくは姫路の広峯神社が総本社とされます。牛頭天王は、インドのインドラ神の化身の一つが仏教に取り入れられ、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神。素戔嗚尊は、父である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)から夜の国もしくは海原を治めるように定められるのですが、母である伊弉冉尊(いざなみのみこと)のいる根の国に行きたいとそれを断ります。素戔嗚尊は、根の国に向かう前に姉の天照大御神に別れの挨拶をしようと高天原へ上りますが、粗暴を働いて追放されます。

 牛頭天王素戔嗚尊が習合したのは、両神とも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたため。本地仏薬師如来とされました。平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることによって疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形です。その祭礼を祇園御霊会といい、京の市民によって祇園社(八坂神社)で行われるようになりました。祭礼は後に「祇園祭」と呼ばれます。明治に神仏分離が行われた際、仏教の神である牛頭天王は祭神から外され、神道の神である素戔嗚尊だけが残されます。同時に神社名から仏教用語の「祇園」や「牛頭天王」が外され、総本社である京都の祇園社も八坂神社と改名されました。

 

 流行神は神が社会的な存在であり、時代や地域によって変化することを見事に示してくれます。神々は社会的、歴史的な存在なのです。では、習合、合体を繰り返す神道の神々の中のトップは誰なのでしょうか。奈良時代までは「たかみむすび」のほうが格上だったとか、国産みをした「いざなぎ、いざなみ」のほうが偉いはずだとか、日本の神々の世界に序列などないとか、様々な議論がありますが、大方の人が認める最も権威ある神は「あまてらす」でしょう。天皇家の先祖神であり、太陽の女神だから、というのがその主な理由です。

コムラサキ

 「ムラサキシキブ」という名前はとても印象的で、商品とすれば誰もが使いたい名前である。そのムラサキシキブのの特徴を挙げれば、葉には細かいぎざぎざがあり、実の付き方がまばらで、花や実が葉柄の付け根についていて、木が大きい。それに対して、「コムラサキ」と一段へりくだった名前の植物の特徴は、葉は上の方にだけ荒いぎざぎざがあり、実はびっしりと見栄えよくついていて、花や実が葉柄の付け根からほんの少し離れてつき、木はあまり大きくない。これだけ対照的に書くと、二つは簡単に見分けられそうだが、それがなかなか厄介で、難しい。
 兎に角、見栄えがよいのはコムラサキの方で、庭などに植えられているのはほとんどコムラサキ。特に、庭木ではコムラサキを指してムラサキシキブと呼ぶことが多い。画像は10月中旬のもの。

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