神の存在証明(2)

 トマス・アクィナスアリストテレス哲学を土台にキリスト教神学をつくりだした主要な一人で、彼は神の存在証明を5通り(「5つの道」と呼ばれる)示しました。それは既に述べた通りですが、その最初の証明である運動からの証明を詳しく見てみましょう。ついでながら、アキナスの最後の証明は「デザインからの証明」でもありました。それを論証としてまとめると、次のようになります。

・目的に向かう対象の中で、あるものは心を持ち、別のものはもたない。
・目的に向かう対象は、それが心を持たないなら、心を持つものによって創造されたのでなければならない。
・それゆえ、目的に向かう、心を持たない対象をすべてデザインした存在がなければならない。
・したがって、神が存在する。

[運動からの証明]
前提1:動くものがある。
前提2:動くものは他のものによって動かされる。
それゆえ、何かを動かすものがそれ自身動くなら、それは第3のものによって動かされなければならない。
それゆえ、動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう。
それゆえ、動かすものの無限の系列はあり得ない。
結論:最初の自らは動かないで、動かすものがある。

この証明が正しいなら、結論に登場する最初の動者という性質をもつものがあることになり、運動の第一原因としての神の性質が証明されたことになります。一見すると反論するのは難しいように見えます。動者の系列を辿っていくと最初のものに行き着き、それは最初のものであるために他の何ものからも動かされることがありません。動かされるなら、最初のものではなくなるからです。「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文がこれに対応しています。この文が正しいなら、上の証明は前提を認める限り成立します。したがって、この文の真偽が証明の鍵を握っていることになります。
 そこで、無限についての知識を活用してみましょう。私たちは自然数や実数が無限個あることを知っています。そこで、まず自然数を考えて、各自然数が動者に対応しているとしてみましょう。動くものをnにして、それを動かすものをn-1、さらにそれを動かすものをn-2という風に、次第に遡及してみましょう。すると、最後に0に到達し、それ以上は遡及できません。この0が不動の動者に対応しています。これが私たちに反論が難しいという印象を与えていた理由なのです。でも、ある自然数nから遡及するのではなく、n+1を動かすもの、そしてそれを動かすものをn+2という風に考えて行くとどうなるでしょうか。すると、いつまで立っても最終の到達点はありません。というのも、自然数は無限だからです。自然数の系列をこのように解釈するなら、これはトマス・アクィナスの証明に対する反例となります。
 さらに、適当な正の実数を考え、その実数から次第に0に近づく実数の系列を想像してみましょう。0から1までの線分が格好の例となります。実数は0から1まで連続して並んでいます。線分内の個々の実数が動者であると仮定して、上の証明を当てはめてみましょう。0から1までは無限の系列ですが、明らかに最初のものが存在します。それは0です。これは「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文に対する反例となっています。したがって、この文は正しくなく、この文を含む証明全体も正しくないということになります。閉区間 [0, 1] には確かに0という出発点があります。これは出発点を保証して、かつ無限の動者の系列をつくることができることを意味しています。この点で、結果としてアクィナスの証明を補強するのに使うことができます。一歩一歩では到達できないが、出発点は存在する場合があるのです。でも、半開区間 (0, 1]を考えたらどうなるでしょうか。0はこの区間に含まれないので、この半開区間に出発点はありません。aが出発点なら、a/2が存在して、それはaより小さくなってしまい、aは出発点ではなくなってしまいます。無限の系列は存在し、動者を遡っていくことができるにもかかわらず、最初の動者、つまりは第一原因には到達できないのです。これも別の意味で「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文の反例になっています。
 このように現在の私たちは簡単に証明の誤りを指摘できますが、それが可能なのは「無限」概念とその知識を使っているからです。無限が承認できないのであれば、このように簡単に処理することはできません。無限の容認の是非が二つの時代(アクィナスと私たち)を分けているのです。形而上学を通じてこの違いを垣間見てみましょう。
形而上学について]
 形而上学は哲学の研究分野の一つで、実在や自然の本性を研究してきました。論理学の開祖はアリストテレスですが、そのアリストテレスの名を有名にしている今一つのものが形而上学です。形而上学は英語でMetaphysics。物理学はPhysics。「メタ」という表現は最近よく登場しますが、「~ の後に、次に」という意味です。Meta-physicsは、したがって、「物理学の後で研究するもの」という意味なのです。実際、アリストテレス形而上学は自然についての個々の知識を習得した後で、自然の基本的な本性について一般的に研究するものでした。このような語源的な説明だけで形而上学が何かわかるものではありませんが、その歴史は自然に関する哲学と深く結びついていました。この自然哲学の傾向はニュートン(Isaac Newton, 1642-1727)の物理学を通じて物理学の基礎的な概念の追求となって現在にまで続いています。また、アリストテレス形而上学カトリック神学に取り入れられ、自然神学を形成したため、神と自然や人間の関係についての一般的な考察にも多くの研究が費やされてきました。そのような研究の代表例が神の存在証明で、それは次のようだったのです。
 世界の出来事が無限にないことを仮定した上で、どのような出来事にも原因があり、その原因にはまた別の原因があるという具合に、原因を遡及する系列を考えた場合、それは無限に遡及できないことから、それ自身では他のものによって引き起こされない第一原因がなければならないことになります。この第一原因は世界の中の出来事を引き起こすのですから、世界の中になく、そのような第一原因を性質としてもつものがなければなりません。そして、それが神なのです。

(問)神を信仰することは、神の存在証明とどのような関係にあるのでしょうか。信仰をもつなら、信仰の対象である神は存在し、それを証明する必要はない、と考えれば、神への信仰とその神の存在はどのような関係になるのでしょうか。信仰するゆえ、神は存在するのか、それとも、存在するゆえ、信仰をもつことができるのか。あるいは、それらのいずれでもないのか。「神が存在する」、「神を信じる」、「神を知る」の間にはどのような関係があるのでしょうか。

[無限の解明]
 第一原因の存在を証明する推論は既に見たように正しくありません。現在の私たちには無限概念は驚くべき概念でも恐れるべき概念でもありません。したがって、最初の前提は多いに疑いの余地があります。さらに、「第一原因である」という性質から、そのような性質をもつものが存在するという推論も受け入れることができません。確かに、中世は無限概念を嫌い、恐れましたが、だからといって無限概念を消し去るわけにはいきません。既にパンドラの箱は開けられてしまったのですから。
 ところで、「無限」とはどのようなものでしょうか。カントール(Georg Cantor, 1845-1918)によって明らかにされた無限概念は、集合論という20世紀数学の基礎理論を生み出すことになりました。「無限に分割する」、「限りなく大きい」といった表現に正確で、矛盾のない意味を与えることは、自然数や実数という数学的な対象を正しく把握することになり、それらを基礎とする数学を確立することになるとカントールは考えました。その結果、現在では公理的な集合論ができあがり、数学の基礎理論として使われています。能書きはこのくらいにして、「無限」に触れてみましょう。自然数はいくつあるか。それはどのように証明できるのか。これらの問題はそれほど厄介ではありません。自然数が有限で、したがって、その中に最大のものがあったとしてみましょう。それをnとすると、nに1を加えて自然数がつくられることから、n+1という自然数があることになります。すると、nは最大であったにもかかわらず、n < n+1であり、これは矛盾です。それゆえ、最大の自然数があるという最初の仮定が誤りであり、最大の自然数は存在せず、自然数は有限ではないことになります(当然ながら、自然数はその大きさに関して単調に並んでいて、循環しない)。つまり、自然数の個数は無限です。では、実数はどうか。自然数は実数の一部であり、その一部が無限なのですから、当然実数の個数も無限であると考えることができます。では、同じサイズの無限なのか、それとも異なるサイズなのか。カントールは「対角線論法(diagonal argument)」と呼ばれる手法によって実数の無限のサイズが自然数のそれより大きいことを示しましたが、ここでは直観的に次のように理解して下さい。自然数は小さい方から順に、0、1、2、…と並べていくことができます。でも、実数をこのように並べることができるでしょうか。0から始めて、次に大きい実数は何か。私たちは実際にそれが何かを言うことができません。そのような数が存在することは証明できても、それが何かは直接に指定できません。自然数の無限は番号をつけることができますが、実数は連続しており、可付番ではありません。これで少なくとも2種類の無限があることがわかりました。実際、無限の種類は無限にあります。でも、自然数と実数の間に別の無限があるかどうかはわかりません。

(問)一番大きな無限があるかどうか考え、それがないことを帰謬法で証明しなさい。また、一番小さな無限が存在するかどうか説明しなさい。
(問)「0より大きい実数の中で最も小さい実数」と表現することによって、0の次の実数を指示することができます。この表現内容通りに最も小さい実数を実際に見つけ、取り出すことが私たちにできるでしょうか。0の次に大きい実数が存在することを証明することと、その存在が証明された数を実際に取り出すことを証明することとがどのように異なることなのか説明しなさい。

内藤とうがらし

 真っ赤なトウガラシが眼に飛び込んできた。赤色は強烈なのだと叫んでいるかのようである。赤と緑のコントラストも眼には辛い刺激になって、感覚知覚を覚醒させてくれる。
 内藤とうがらしとは、江戸周辺で栽培されていたトウガラシ。江戸東京野菜の一つ。内藤とうがらしは江戸時代、高遠藩主内藤氏の下屋敷(今は新宿御苑)の菜園で栽培がスタート。真っ赤に成熟したものは漬物用や香辛料に、また七色唐辛子の「薬研堀」にも使われ、江戸の食材の一つとなった。
 元禄11年(1698年)、内藤氏の下屋敷の一角に江戸四宿のひとつ内藤新宿が開設された。甲州街道で最初の宿場となった内藤新宿は、江戸と近郊農村地帯を結ぶ文化的・経済的拠点。当時、江戸参勤中の大名は屋敷の敷地内に畑を設け、野菜を自給自足していた。高遠藩では内藤新宿の一角に青物市場を開き、屋敷で栽培した野菜の一部を販売した。唐辛子と南瓜が評判となり、周辺の農家にもそのタネが伝わり、内藤新宿から近郊の農村地帯(西新宿、北新宿、中野など)では特に唐辛子の栽培が盛んになり、この地域の名産品となった。
 新宿地区の開発とともに農地はなくなり、内藤とうがらしも姿を消した。しかし、2009年に「スローフード江戸東京」の手によって内藤とうがらしは復活。今でも新宿区内で内藤とうがらし普及プロジェクトが進められている。

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神の存在証明

 「神の存在証明」という謂い回しはその実像を覆い隠すに十分で、その呼び名の正しい表現は「神の存在仮説」の説明だというのが私の考えです。経験主義的な立場からは、実在することが証明できない存在は仮説に過ぎません。これまでの神の存在証明と呼ばれる試みは、神が原子のように実在することの経験的な証明ではなく、理屈の上で存在するという、いわば仮説に過ぎないのです。原子の存在は実証されず、長い間仮説に留まってきました。その実在証明は20世紀に入ってからでした。原子はペロンによって存在証明がなされたのですが、神は原子のようにその存在が実証されたのではなく、推論されたに過ぎないという意味で仮説なのです。むろん、仮説だからと謂って、いい加減であやふやなものという訳ではありません。自然神学の今様の言葉遣いに合わせるならば、自然神学での神の存在証明は実験や観察の結果がない証明であり、それゆえ仮説なのです。でも、当然ながら啓示神学は神が実在することを前提にしていますし、信者は誰も神を信じて疑いません。
 では、実験や観察のない神の存在証明とはどのような証明なのでしょうか。今では理屈を駆使して神の存在(あるいは非存在)を証明しようとする人はごく僅かです。昨日述べたように、存在とそれを知ることが独立しているなら、知ることは実証レベルの話であり、存在の証明とは関係がないと考えられていて、かつては神の存在証明は多くの人々の関心の的だったのです。実際、様々な証明が行われ、それらは分類され、まとめられてきました。中でも有名なのがカントの要約であり、遡ればトマス・アクィナスのまとめがあります。そこで、偉大な思索家二人が神の存在証明をどのように捉え、説明したかまとめてみましょう。
<カント>
 目的論的証明(自然神学的証明)は、世界が規則的で、精巧なのは、神が世界を作ったからだと主張します。本体論的証明(存在論的証明)では、「存在する」という属性を最大限に持ったものが神ですから、神は文句なく存在します。宇宙論的証明によれば、因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと第一原因に到達し、この第一原因が神なのです。道徳論的証明によれば、「道徳に従うと幸福になる」と考えるには神の存在が必要なのです。
 最初の三つは、カントが『純粋理性批判』の第三章「純粋理性の理想」において中世以来の神の存在証明をその論駁のために独自にまとめたものです。四種類の存在証明は、基本的なパターン分類であり、これらのパターンの一部が使用されたり、また複合形で論証が行われたりする場合もあります。四つの証明に共通するのは、いずれも実験や観察の結果ではなく、推論に基づく結論として述べられていることです。推論のもつ前提は実証的なものではありませんから、結論である神の存在も実証的なものではありません。つまり、神の存在は証明されても、仮定のままなのです。
 例えば、スピノザは「神=自然」だとしたのですが、自然の存在は自明であり、そうだとすれば神の存在も自明となります。これに対し、精神(思惟実体)と物質(延長実体)の実体二元論を提示したデカルトの思想では、精神と物体が調和している根拠が不明であるにもかかわらず、現に精神と物体の調和性が存在するのは、両者の仲介者としての神が存在するからなのです。
 次のものはニュートンの逸話として語られている神の存在証明です。この遣り取りに触れた最も古い資料は1800年代初めのもので、それによればニュートンではなく、ドイツの学者アタナシウス・キルヒャーの逸話とされています。 彼は教会の御用学者として、実に多くの著作をなしています。上手な機械工に作らせた太陽系模型は、惑星を表す球体が実物そっくりに連動しながら軌道上を回るように作られていました。ある日、彼を訪ねた無神論者の友人は模型を見て、それを操作し,その動きの見事さに感嘆の声を上げ、誰が作ったか尋ねました。無神論者の友人は、「誰かが作ったのに違いないが、その人は天才だ。」と褒めたたえました。キルヒャーはその友人に「私はこの玩具が設計者や製作者なしに存在することを君に納得させることができない。それなのに、君はこの模型の原型である偉大な体系が設計者も製作者もなしに存在するようになったと信じている」と言い、以後その友人は神の存在を認めるようになったとのことです。これは世界の設計者、デザイナーとしての神であり、ペイリーの『自然神学』で展開されるデザイン論証の主張なのです。
トマス・アクィナス
 トマス・アクィナスは、『神学大全』の第1部第2問題第3項において、「神は存在するか」と問います。この問いに対し、トマス・アクィナスは、まず、「神は存在しない」という主張について吟味することから「神の存在証明」を始めます。

もし対立するものの一方が無限であるとすれば、もう一方のものは完全に追いやられる はずだ。それゆえ、無限の善であるはずの神が存在するならば、この世の悪は追いやられるはずだ。しかし、この世には悪が見出される。したがって、神は存在しない。

 自然のものであれば自然の本性に遡って説明することができます。また、計画や自由裁量に基づくものは、人間の理性や意志に遡って説明することができます。ですから、神が存在すると考える必要はありません。このような吟味をした上で、トマス・アクィナスは、聖書の『出エジプト記』の中の「わたしはある。わたしはあるという者だ」(3章14節)という神自身の言葉を挙げます。神は存在しないのか、それとも、神は存在するのか。トマス・アクィナスは、上記二つの反論への「答え」を導くにあたって、まず、アリストテレスの哲学を援用しながら、神が「存在」することを下記の五つの方法によって理性的に「証明」したのです。

(1)運動変化による証明
 運動変化が世界にはあります。運動変化するものは、すべて他のものによって動かされています。そして、その運動の原因となるものも、何か他のものによって動かされています。このように運動変化の原因を遡っていけば、最終的には、他のものによって動かされたのではない、最初に動かしたものがなければならないことになります。それが、神です。
(2)始動因による証明
 始動因とは「ものの変化または静止を起こす原因」のことですが、あるものが自分自身の始動因になることはありえません。なぜなら、自分自身がみずからの始動因であるならば、自分が自分自身に先立って存在しなければならなくなるからです。一方、始動因はすべて順序立っていて、最初の始動因が、複数ある中間の始動因の原因であり、中間の始動因が最後の始動因の原因です。つまり、始動因には必ず「最初の始動因」が存在するのであり、それが神です。
(3)可能性(偶発性)と必然性による証明
 事物のなかには「存在することも存在しないことも可能なもの」、つまり偶然に存在するものがありますが、そうした偶然的なものが存在するには原因があります。この原因を遡っていくと、存在することが必然であるものの存在を認めなければなりません。そうした存在は、存在することが必然だから存在しているのであり、必然性の原因は他によるものではなく、自分自身の内にしかありません。そうした存在が神なのです。
(4)段階と完全性による証明
 大理石でつくられた二つの彫像があれば、どちらか一方の彫像の方がもう一方の彫像よりも美しいと判断できます。このような判断が可能なのは、美や知恵など、あらゆるものの質の段階を判断するための規準があるからであり、そうした規準は最高の完全性を持っていなければなりません。そして、そうした最高の完全性をもつのが神です。
(5)世界秩序の存在による証明
 物体には知性がありませんが、その物体はなんらかの目的へ向かって動いているように見えます。目的へ向かうのは、そこになんらかの意図が働いているからです。矢が射手によって的へ向かって放たれるときのことを考えればわかるように、知性を持たない物体は、認識と知性を備えたなんらかの存在によって方向を与えられなければ、目的へ向かうことができません。それゆえ、すべての自然物を目的へと向かわせる、知性を備えた何かが存在していることになりますが、それが神です。

 トマス・アクィナスはこれら五つの「証明」をした上で、上記二つの反論に答えます。

「この世には悪が見出されるから神は存在しない」という反論への答え
 アウグスティヌスは「神は最高度に善であるから、もしも神が悪からでさえも善を造り出すほどに全能かつ善でなかったならば、いかなるものであろうと、なんらかの悪がみずからの業のうちに存在することを許さなかったであろう」 と述べています。したがって、悪が存在することを許し、悪から善を引き出すことは、 神の無限の善性に属しています。

「あらゆるものは神にまで原因を求めなくても説明できるから神が存在する必要はない」という反論への答え
 目的へ向けて自然が働くのは、なんらかの上位の作用者によって方向づけられたものですから、自然によって生じるものが第一原因である神に還元されることは必然です。同じように、計画や自由裁量によって生じるものも、人間の理性や意志ではない、より高い原因に還元されなければなりません。なぜなら、人間の理性や意志は不完全であり、それ自身によって必然的であるなんらかの第一原因にまで還元されなければならないからです。

 でも、トマス・アクィナスの哲学にとって神は存在することが証明できても、神が何であるかを知る(つまり、その本質を明らかにする)ことはできない存在でした。これが自然神学の限界だったのだと考えることもできます。これはカントでも同様です。「神が存在する」ことと「神の存在を知る」こととは違うのです。キリスト者の信仰にとって重要なのは神の存在ではなく、それを知ることだと言われるのですが、神の存在とそれを知ることの間にある違いとは一体何なのでしょうか。
 信者でない私にはわからないことだということになるのですが、自然神学での神の存在と啓示神学での神の存在の違いは神の存在とその存在を知ることの違いなのではないかというのが私の予想です。そして、その違いは原子の存在仮説と原子の存在の実証の違いだと考えてよいのではないかと言うのが私の向こう見ずな主張です。

ケイトウ

 一般的にケイトウと呼ばれるものは、炎のような鮮やかな花色で秋の花壇を彩り、古くから親しまれている馴染のある花で、私も子供の頃からよく目にしてきました。ニワトリのトサカに似ていることから「鶏頭」と呼ばれ、花房の先端が平たく帯状や扇状に大きく広がり、これがよく目立つのが大きな特徴です。英語でも「cocks-comb」(鶏のとさか)ですから、この花は、誰にも「鶏のとさか」に見えるようです。
 原産地はアジア、アフリカの熱帯地域と推定され、日本には奈良時代にに中国を経由して渡来。花の色は赤や黄色が基調ですが、橙、紫、ピンクなどさまざまな色の園芸品種があります。花穂の形状の異なる羽毛ケイトウ、久留米ケイトウ、トサカケイトウ、ヤリゲイトウ、ノゲイトウの五つの系統があります。また、花と葉はアフリカと東南アジアでは食用として利用されています。
 画像は羽毛ケイトウとセロシアアジアンガーデンというノゲイトウの園芸種です。セロシアはトサカにならず、花穂は細長い円錐形で、枝分かれしてたくさんの花穂をつけます。

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「嘘しかつかない」ことを巡って

 真理を考える際に出てくる基本概念の一つが「真、偽(true, false)」です。真、偽とは言明の真偽のこと、つまり「ある文が真である、偽である」ことです。では、真でも偽でもない、いわば中間の真理値をもつ言明はあるのでしょうか。真とも偽とも判定できない、曖昧な言明は沢山あると大抵の人が思うのですが、真と偽の中間はないというのが古典的な二値論理の基本的立場*。これに対して、多値論理、ファジー論理は中間の値を積極的に認める立場です。このような形而上学的な議論と、話し手や聞き手のいるコミュニケーション場面での文の認知に関わる議論とでは状況はすっかり異なります。言明の真偽と言明の内容を知り、評価することとは別物だというのがアリストテレス以来の合理主義的哲学の基本中の基本です。真理は個人の心の状態になど依存しないのだというのが合理主義の根幹に居座っているのです。

*どの言明も真偽のいずれかであると主張することと、その言明が真か偽かを実際に決定することとは根本的に違うことで、それは「出走馬のいずれかが勝つ」と言うことと「どの出走馬が勝つかを当てる」こととが全く違うことによく似ています。私たちが言明の真偽を確率値の如く受け取るのは、生活世界で知ることが十全でないことをわきまえているからです。「世界に始まりがある」という言明は私たちが世界に誕生する前から、そして絶滅した後も私たちとは無関係にその真偽が決まっている、そう考えるのがアリストテレス以来の存在論の主張です。

 嘘つきのパラドクス、あるいは自己言及(self reference)のパラドクスは、実はゲーデル不完全性定理とその証明のきっかけ、ヒントとなるもので、人の理性が不完全でしかないことを具体的に証明する引き金になりました。そして、その証明のための大前提が「嘘しかつかない」人がいるということだったのです。これは神の国では何ら問題のない数学的な仮定なのですが、日常的な、人の国ではできない相談だというのが私の主張でした。でも、そうであっても、神の国幾何学であればこそ、人の国で役立つように、自己言及のパラドクスも同じような仕組みで同じように役立つのであり、その具体例の一つがゲーデル不完全性定理だったのです。

 理性の限界を示す難解極まりない不完全性定理より、その土台に横たわる西洋の哲学を支えてきた存在論的要素と認識論的要素の違いを真偽概念を通じて考えてみましょう。アリストテレストマス・アクィナスによれば、(既述のように)言明の真偽は私たちがその言明を知る、知らないには関係なく、決まっているのです。私が知らなくても、重力の値は決まっていますし、私の体重は私が知ることによって変わったりしません。ものがもつ性質はそれが知られることとは独立しているように、言明の真偽も誰がいつ知るか、知らないかとは無関係なのです。言明が真だということは、その言明が真だと知られないと決まってこないなどということはなく、知ることとは無関係に決まっているのです。「ABである」が真であるのは、「ABである」ことを知るから真になるのではないのです。これがアリストテレス以来の存在論の立場であり、そのような存在論的世界で成り立っている論理規則が古典論理学の規則なのです。私たちにとって、この古典論理の規則は生得的であるかのように信じて疑わない規則としてほぼすべての領域で使われています。ですから、「アリストテレス侮るなかれ」なのです。カントが如何に認識の優位を強調しようと、古典論理(あることの論理)を否定して、認識論理(知ることの論理)を提示することはできませんでした。

 その認識論的な観点からは、私たちが知ることが中心になります。ですから、知られる言明の間で成り立つのが認識論理なのですが、実はその論理規則はよくわかっているとは言えないのです。存在の原則はわかりやすいのですが、認識の原則は意見が分かれるのです。情報の送り手、受け手、知識や認知の基本規則を論理規則としてまとめることは、カント以来うまくできていません。恐らく論理規則などではなく、科学法則として認知科学の研究課題として明らかにされるのでしょう。実際、今では認知の規則として実証的に扱われています。
 そこで、よくわかっている存在論的な立場での論理規則の説明となる「二値性の原理」を再度説明してみましょう。「どんな言明も真か偽のいずれかである」と言うのが二値性の原理です。人の国では真偽の他に半分ほど真なる言明も認めてしまいがちです。でも、どんな言明も真か偽のいずれかであるというのが古典論理の前提であり、それが「二値性の原理」と呼ばれてきたものです。この原理を理解する際の肝心な点は、どんな言明であれ真か偽のいずれかであることと、その言明の実際の真偽を知っていることとは別のことであるということです。これは既に何度も強調した点です。では、「嘘をつく」とはどのように表現できるのでしょうか。
 言明「ABである」について、「ABである」は真である、「ABである」は偽であるという高階の言明を考えることができます。嘘をつくとは「ABである」が真の場合、「ABでない」と言うことであり、「ABである」が偽の場合、「ABである」と言うことです。ですから、「嘘しかつかない」とは、どんな言明についてもその真偽を知っていて、知っていることとは違う真理値の言明を表明することです。つまり、「嘘しかつかない」ことが実行できるには、(推理を進めていくと、)すべての言明の真偽を知っていなければならないのです。

 このような古典論理の二値性は世界を外から客観的に、俯瞰的に眺めることであり、その世界から私自身が独立していることです。これは典型的な科学的見方だと思われるかも知れませんが、その科学的な見方は古典論理の立場を使って世界を見る、述べることから出てくることであり、科学独自の見方でも何でもないのです。その見方こそヨーロッパの合理主義哲学の真髄なのです。科学は人間の観点を無視するのではなく、科学の観点こそ合理的な人間の観点なのです。

サルスベリの花と実

 風の強い湾岸部には風に強いサルスベリの街路樹が目立つ。古い樹皮が剥がれ、木の幹がつるつるになり、猿も滑って落ちる、というのが名前の由来。また、花期が長く6月から9月にかけ、100日ほど咲いていることからヒャクジツコウ(百日紅)とも呼ばれる。だから、加賀千代女は「散れば咲き 散れば咲きして 百日紅」と詠んでいる。中国原産で、江戸時代以前に観賞用として渡来。
 花からは想像がつかないが、画像がサルスベリの実。既にサルスベリの実が枝もたわわについている。園芸家は、この実が見苦しいということで、花が終わると枝を切ってしまうという。私などなんともったいないことかと思ってしまう。実は6裂し、中には12個の種子が入っていて、その種子には翼がついている。

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「嘘しか言わない」人はいるのだろうか?

(9月4日の「懐疑と不信」の展開)
 嘘しか言わない狼少年が「今自分が言っていることは嘘だ」と自己言及(self reference)したとき、それは嘘なのか、と問われたら、どう答えたらいいのでしょうか。狼少年自身が自分は嘘つきだと表明していて、その嘘が嘘だということですから、自分の言っていることは本当だということになってしまいます。でも、この発言自体が嘘なら、狼少年は正直者ということになり、嘘しか言わないことに反してしまいます。これが有名な「クレタ島の嘘つき」問題です。自己言及のパラドクスやラッセルのパラドクスと並んで、20世紀の言語や論理についての哲学を大いに刺激したパラドクスということになっています。
 でも、「嘘しか言わない」、「いつも必ず嘘をつく」ことはそもそもできることなのでしょうか。嘘をつくことはとても人間的なことなのですが、「嘘しか言わない」となると人間業で可能なのでしょうか。嘘をつくとは眼前の出来事や風景をそのまま述べ、「…は~である」と報告するのと同じではありません。例えば、風景を表現した言明を否定し、正反対の言明を述べることが嘘をつくことで、嘘は意識的、意図的に生み出されるものです。ですから、嘘をつく当人は知識や事実を知っていて、それらとは反対のこと、簡単には知識や事実の否定を正しいものであるかのように述べることになります。つまり、嘘をつくには当人はその嘘に関連する知識や事実を事前に知っている必要があります。嘘をつくには嘘でない真実を前もって知っていて、本当であるかのように演技しなければならないのです。
 このように見てくると、言明が真か偽かを知っていないと、その言明の否定形が嘘であることを知ることができないことがわかります。嘘をつくには、巧みな騙しの演技の前に、前提となる全知の条件が満たされていなければならないのです。つまり、「嘘しかつかない」ためには、すべての言明の真偽があらかじめわかっていなければなりません。そうでなければ、嘘しかつかないようには行為できません。これは全知の能力を要求していて、正に神の能力の一つが満たされなければならないことを意味しています。ですから、当然人間には不可能なのです。
 こうなるとクレタ島の嘘つきの話はとても陳腐で、人々を混乱に陥れるだけのレトリックに過ぎないと言えないことはありません。不可能な理想化によって「嘘しかつかない」という状況をつくり出しただけで、実際は神にしかできないことだったと言って一笑に付すことができてしまうのです。
 でも、本当にそうでしょうか。何が理想化されていたのかをより詳しく探ってみましょう。まず、普通の説明を再確認しておきましょう。クレタ人のAが、「クレタ人は嘘つきだ」と言いました。通常、議論されるのは、もしAの言った「クレタ人は嘘つきだ」ということが真であると仮定すると、Aはクレタ人であるので、Aの言っている「クレタ人は嘘つきだ」は嘘となり、クレタ人は嘘つきでないことになります。また、Aの言った「クレタ人は嘘つきだ」というのが偽であると仮定するとクレタ人は嘘つきでないことになり、Aはクレタ人なので嘘をついていないことになり、Aの言った「クレタ人は嘘つきだ」というのが真となり、これも仮定に矛盾します。ですから、Aの言った「クレタ人は嘘つきだ」というのは真でも偽でもないことになります。
 「すべての言明の真偽がわかっている」という暗黙の前提が「嘘しかつかない」ことの前提になっていたのですが、この前提は「二値性の原理(principle of bivalence)」と呼ばれてきたものなのです。その原理の主張は「どんな言明も真理値をもち、真か偽かのいずれかである」というものです。この原理は存在論的な主張で、私たちの認識に関する原理ではありません。ですから、この原理が私たちの生活世界で常に成立しているかと問われれば、誰も成り立っていないと答える筈です。現実の世界には真か偽かわからない言明が山ほどあり、真偽のわかった言明より遥かに多いと多くの人は感じています。「知より無知の方が多い」と人は思って生活しています。では、なぜ二値性の原理が古典論理のシステムに関して成り立っているのでしょうか。私たちが言明の真理値を知ることとその言明の真理値が真か偽かのいずれかであることは別のことだと古典論理では考えています。それは私の背中が私には見えなくても、必ず存在していると私が考えることに似ています。実際、今私たちが論理と呼んでいるものはこの古典論理であり、そこでは二値性の原理が厳然と成り立っています。
 これを仮に「理想化」と呼ぶなら、他の分野にも数多く見られ、決して珍しいものではありません。例えば、前回述べた幾何学でも点や線はその定義からして理想的な存在で、私たちの住む世界には実在できない性質をもったものです。サイズのない点、太さのない線はこの生活世界には実在できません。でも、だからといって、ユークリッド幾何学が誤っている訳ではありません。多くの人が、存在できない筈の点や線について定理を証明し、作図し、その美しさに感銘を受けた筈です。それだけでなく、ユークリッド幾何学はこの生活世界で実際に大いに役立っているのです。
 同じように、「嘘しかつかない」ことがパラドクスを引き起こすのですが、それは理想的な世界でのことであって、この生活世界では「嘘をつく場合がある」ことしか成り立っていません。幾何学と物理学はほぼパラレルに成り立つと見做して多くの成果が上がってきたのですが、理想的でないこの世界では嘘はどのようなことになるのでしょうか。
 そこで、イソップ童話の「羊飼いと狼」の狼少年の言動がもたらすことを考えてみましょう。ここでは誰もパラドクスのことは夢にも考えず、二つの話は基本的に異なった分野の問題だと考えるのではないでしょうか。ここが幾何学と物理学の並列とは大変違っている点です。
 「嘘をつく」ことは意識的な心的働きによるもので、心が関わる態度とも言えるものです。「疑う」こともそのような態度の一つで、人が知識を獲得する上で重要な役割を果たしてきました。デカルトやヒュームが「懐疑」を重要な装置と捉え、意識や知識について哲学したことは有名な事実であり、ほとんどの人には周知の事柄です。一方、太宰治の「走れメロス」やイソップの狼少年の話も大抵の人が知っています。そして、これらの例は二つの異なる領域の事柄として、関連させることなく理解されてきました。二つは異なる領域の事柄だということを書き出してみれば、例えば次のようになります。

(1)個々の信念や言明の真偽を疑うこと(デカルト、懐疑)
(2)人や組織全体の信頼、信用を疑うこと(太宰、不信)

デカルトの方法的懐疑は知識論や認識論につながるを近代的な哲学の出発点になり、信頼や不信は人間社会の中の倫理や道徳に存在意義を与えるきっかけになりました。そして、知識と倫理は領域を異にする典型として位置づけられてきました。では、(1)と(2)の言明が違う領域のものだとすれば、その間にはどんな関係があるのでしょうか。知人が狼少年とは正反対にいつも真実しか言わない人だとすれば、その知人をあなたは信頼する筈です。逆に狼少年のようにいつも嘘をつく人であれば、その知人を信用しない筈です。二つの関係は、

(3)(1)がなければ、(2)もない、

であり、人や組織全体を疑うためにはその人や組織の個々の言明や言動を疑わなければなりません。二つの言明の間には(3)のような関係があるのです。
 「(1)がなければ、(2)もない」はそのまま(1)、(2)を代入すると、「個々の信念や言明の真偽を疑うこと(デカルト、懐疑)がなければ、人や組織全体の信頼、信用を疑うこと(太宰、不信)もない」となります。簡単にすれば、「個々の信念や言明の真偽を疑うことがなければ、人や組織全体の信頼、信用を疑うこともない」となり、この命題(=言明)を「展開」すれば、例えば、「Aさんの信念一つ一つを疑わなければ、Aさんへの信頼を疑うこともない」、「Aさんを信頼することは、Aさんのもつ信念を信じることである」といった言明が導出できます。
 この言明は知識を獲得する方法を述べているのではなく、知識を獲得する際の「信じる」、「疑う」という心的働きの動向について述べているのです。少々意欲的に述べれば、真なる言明を獲得するには信じるだけでなく疑うことが不可欠で、疑うことができればできるほど信じることができるようになり、信じることができればできるほど疑うことできるようになるのです。ですから、知識は「信じる」ことと「疑う」ことの間の暫しの安定状態の表現だと考えることができます。キザに表現すれば、これこそが知識のダイナミックな特徴だということになります。要は、「暫定的」であることが知識の本性だということです。
 疑うことと信じることは正反対の心的態度だと思われ、二つの間の関連など普通は考えもしません。しかし、疑うことができなければ信じることができず、信じることができなければ疑うこともできないという相補的な関係が背後に隠れているのです。信頼される信念は真でなければなりませんし、偽の信念は疑いのあるものです。信念の真偽が変わることによって、信頼される信念と疑いのある信念の地位はいつでも入れ替わることができます。それゆえ、古い誤りが是正され、新しい信念を採用して、人間関係や組織、制度を変えていくことができるのです。
 個々の信念や言明を疑うことが知識を学ぶ出発点だとすれば、人や組織を疑うために知識を学ぶことになります。友人や仲間を疑うために知識を学ぶというのは奇妙なことに思えますが、それは「人や組織を信頼するために知識を学ぶ」ことの別の表現に過ぎません。信頼するためにはその知識を信じるだけでなく、疑うことができなければなりません。信頼のためのメカニズムは疑うためのメカニズムと基本的には同じなのに、人は通常一方のみへの視点に偏向しがちです。人や組織を信頼したり、不信をもったりすることの基本にあるのは個々の信念や言明に対する真偽です。人を信頼するにはその人の日々の言動が情報としてなければ、納得できる判断をすることができません。組織の仕事や決定に対する信頼や自分の関わり方もすべて(1)から得られるものに依存しています。人や組織への信頼や不信という心的な態度は経験的な真偽の積み重ねの結果なのです。

 神の国ではパラドクスを引き起こす嘘として登場するものが、人の国では信頼や不信の鍵を握る情報としての嘘として登場することになります。