神の存在証明(2)

 トマス・アクィナスアリストテレス哲学を土台にキリスト教神学をつくりだした主要な一人で、彼は神の存在証明を5通り(「5つの道」と呼ばれる)示しました。それは既に述べた通りですが、その最初の証明である運動からの証明を詳しく見てみましょう。ついでながら、アキナスの最後の証明は「デザインからの証明」でもありました。それを論証としてまとめると、次のようになります。

・目的に向かう対象の中で、あるものは心を持ち、別のものはもたない。
・目的に向かう対象は、それが心を持たないなら、心を持つものによって創造されたのでなければならない。
・それゆえ、目的に向かう、心を持たない対象をすべてデザインした存在がなければならない。
・したがって、神が存在する。

[運動からの証明]
前提1:動くものがある。
前提2:動くものは他のものによって動かされる。
それゆえ、何かを動かすものがそれ自身動くなら、それは第3のものによって動かされなければならない。
それゆえ、動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう。
それゆえ、動かすものの無限の系列はあり得ない。
結論:最初の自らは動かないで、動かすものがある。

この証明が正しいなら、結論に登場する最初の動者という性質をもつものがあることになり、運動の第一原因としての神の性質が証明されたことになります。一見すると反論するのは難しいように見えます。動者の系列を辿っていくと最初のものに行き着き、それは最初のものであるために他の何ものからも動かされることがありません。動かされるなら、最初のものではなくなるからです。「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文がこれに対応しています。この文が正しいなら、上の証明は前提を認める限り成立します。したがって、この文の真偽が証明の鍵を握っていることになります。
 そこで、無限についての知識を活用してみましょう。私たちは自然数や実数が無限個あることを知っています。そこで、まず自然数を考えて、各自然数が動者に対応しているとしてみましょう。動くものをnにして、それを動かすものをn-1、さらにそれを動かすものをn-2という風に、次第に遡及してみましょう。すると、最後に0に到達し、それ以上は遡及できません。この0が不動の動者に対応しています。これが私たちに反論が難しいという印象を与えていた理由なのです。でも、ある自然数nから遡及するのではなく、n+1を動かすもの、そしてそれを動かすものをn+2という風に考えて行くとどうなるでしょうか。すると、いつまで立っても最終の到達点はありません。というのも、自然数は無限だからです。自然数の系列をこのように解釈するなら、これはトマス・アクィナスの証明に対する反例となります。
 さらに、適当な正の実数を考え、その実数から次第に0に近づく実数の系列を想像してみましょう。0から1までの線分が格好の例となります。実数は0から1まで連続して並んでいます。線分内の個々の実数が動者であると仮定して、上の証明を当てはめてみましょう。0から1までは無限の系列ですが、明らかに最初のものが存在します。それは0です。これは「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文に対する反例となっています。したがって、この文は正しくなく、この文を含む証明全体も正しくないということになります。閉区間 [0, 1] には確かに0という出発点があります。これは出発点を保証して、かつ無限の動者の系列をつくることができることを意味しています。この点で、結果としてアクィナスの証明を補強するのに使うことができます。一歩一歩では到達できないが、出発点は存在する場合があるのです。でも、半開区間 (0, 1]を考えたらどうなるでしょうか。0はこの区間に含まれないので、この半開区間に出発点はありません。aが出発点なら、a/2が存在して、それはaより小さくなってしまい、aは出発点ではなくなってしまいます。無限の系列は存在し、動者を遡っていくことができるにもかかわらず、最初の動者、つまりは第一原因には到達できないのです。これも別の意味で「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文の反例になっています。
 このように現在の私たちは簡単に証明の誤りを指摘できますが、それが可能なのは「無限」概念とその知識を使っているからです。無限が承認できないのであれば、このように簡単に処理することはできません。無限の容認の是非が二つの時代(アクィナスと私たち)を分けているのです。形而上学を通じてこの違いを垣間見てみましょう。
形而上学について]
 形而上学は哲学の研究分野の一つで、実在や自然の本性を研究してきました。論理学の開祖はアリストテレスですが、そのアリストテレスの名を有名にしている今一つのものが形而上学です。形而上学は英語でMetaphysics。物理学はPhysics。「メタ」という表現は最近よく登場しますが、「~ の後に、次に」という意味です。Meta-physicsは、したがって、「物理学の後で研究するもの」という意味なのです。実際、アリストテレス形而上学は自然についての個々の知識を習得した後で、自然の基本的な本性について一般的に研究するものでした。このような語源的な説明だけで形而上学が何かわかるものではありませんが、その歴史は自然に関する哲学と深く結びついていました。この自然哲学の傾向はニュートン(Isaac Newton, 1642-1727)の物理学を通じて物理学の基礎的な概念の追求となって現在にまで続いています。また、アリストテレス形而上学カトリック神学に取り入れられ、自然神学を形成したため、神と自然や人間の関係についての一般的な考察にも多くの研究が費やされてきました。そのような研究の代表例が神の存在証明で、それは次のようだったのです。
 世界の出来事が無限にないことを仮定した上で、どのような出来事にも原因があり、その原因にはまた別の原因があるという具合に、原因を遡及する系列を考えた場合、それは無限に遡及できないことから、それ自身では他のものによって引き起こされない第一原因がなければならないことになります。この第一原因は世界の中の出来事を引き起こすのですから、世界の中になく、そのような第一原因を性質としてもつものがなければなりません。そして、それが神なのです。

(問)神を信仰することは、神の存在証明とどのような関係にあるのでしょうか。信仰をもつなら、信仰の対象である神は存在し、それを証明する必要はない、と考えれば、神への信仰とその神の存在はどのような関係になるのでしょうか。信仰するゆえ、神は存在するのか、それとも、存在するゆえ、信仰をもつことができるのか。あるいは、それらのいずれでもないのか。「神が存在する」、「神を信じる」、「神を知る」の間にはどのような関係があるのでしょうか。

[無限の解明]
 第一原因の存在を証明する推論は既に見たように正しくありません。現在の私たちには無限概念は驚くべき概念でも恐れるべき概念でもありません。したがって、最初の前提は多いに疑いの余地があります。さらに、「第一原因である」という性質から、そのような性質をもつものが存在するという推論も受け入れることができません。確かに、中世は無限概念を嫌い、恐れましたが、だからといって無限概念を消し去るわけにはいきません。既にパンドラの箱は開けられてしまったのですから。
 ところで、「無限」とはどのようなものでしょうか。カントール(Georg Cantor, 1845-1918)によって明らかにされた無限概念は、集合論という20世紀数学の基礎理論を生み出すことになりました。「無限に分割する」、「限りなく大きい」といった表現に正確で、矛盾のない意味を与えることは、自然数や実数という数学的な対象を正しく把握することになり、それらを基礎とする数学を確立することになるとカントールは考えました。その結果、現在では公理的な集合論ができあがり、数学の基礎理論として使われています。能書きはこのくらいにして、「無限」に触れてみましょう。自然数はいくつあるか。それはどのように証明できるのか。これらの問題はそれほど厄介ではありません。自然数が有限で、したがって、その中に最大のものがあったとしてみましょう。それをnとすると、nに1を加えて自然数がつくられることから、n+1という自然数があることになります。すると、nは最大であったにもかかわらず、n < n+1であり、これは矛盾です。それゆえ、最大の自然数があるという最初の仮定が誤りであり、最大の自然数は存在せず、自然数は有限ではないことになります(当然ながら、自然数はその大きさに関して単調に並んでいて、循環しない)。つまり、自然数の個数は無限です。では、実数はどうか。自然数は実数の一部であり、その一部が無限なのですから、当然実数の個数も無限であると考えることができます。では、同じサイズの無限なのか、それとも異なるサイズなのか。カントールは「対角線論法(diagonal argument)」と呼ばれる手法によって実数の無限のサイズが自然数のそれより大きいことを示しましたが、ここでは直観的に次のように理解して下さい。自然数は小さい方から順に、0、1、2、…と並べていくことができます。でも、実数をこのように並べることができるでしょうか。0から始めて、次に大きい実数は何か。私たちは実際にそれが何かを言うことができません。そのような数が存在することは証明できても、それが何かは直接に指定できません。自然数の無限は番号をつけることができますが、実数は連続しており、可付番ではありません。これで少なくとも2種類の無限があることがわかりました。実際、無限の種類は無限にあります。でも、自然数と実数の間に別の無限があるかどうかはわかりません。

(問)一番大きな無限があるかどうか考え、それがないことを帰謬法で証明しなさい。また、一番小さな無限が存在するかどうか説明しなさい。
(問)「0より大きい実数の中で最も小さい実数」と表現することによって、0の次の実数を指示することができます。この表現内容通りに最も小さい実数を実際に見つけ、取り出すことが私たちにできるでしょうか。0の次に大きい実数が存在することを証明することと、その存在が証明された数を実際に取り出すことを証明することとがどのように異なることなのか説明しなさい。